1:柳多留の出版

 川柳【せんりゅう】といふのは、その始祖柄井【からい】八右衛門の雅号が「川柳」であるからでありまして、寛政二年九月二十三日に七十三歳で「木枯やあとで芽を吹け川やなぎ」の辭世を残して逝きました。その遺業を讃へるために私たちはこの日を記念しまして川柳忌と稱へてをりますのも、すべてわが十七音律の川柳を愛するがゆゑであり、また今後益々盛んになつてゆくやう育てたいからなのであります。
 柄井川柳の選をしてゐた前句附【まへくづけ】といふのは「今やおそしと〱」の前句即ち題を出しますと、この前句につく意味の通ずる十七文字の附句を、假へば「勝手には産湯【うぶゆ】沸して大欠伸」と詠むが如きものでありまして、当時点者【てんじや】(選者)の中で前句附の特異性に最も自覺をもつてゐたのが柄井川柳だつたのです。だから後にいふ川柳文藝が前句附の呼稱となつたわけであります。
 川柳翁が選をしました萬句合【まんくあはせ】(前句附を集めた摺物)の中から呉陵軒可有といふ人が前句を抜いても、十七字の一句立として句意のわかるものを抜萃して星運堂花屋久次郎から出版された書物が「柳多留」初篇であり明和二年五月のことです。それが天保年間百六十七篇まで續いたものでありまして、如何に民衆詩としてもてはやされたものかゞよくうなづかれるのではありませんか。




【見開き十六、十七頁の右が「柳多留の出版」の文章に充てられている。左に一面大きく、



   生命ある句を創るこゝろ


           川柳のねらひはそこにある




 と記されてある。

さらに、十六、十七頁の間には、丸山荷風庵による版画が綴じ込まれており、その版画の横に小さく「想ひ出のひと多くみな月のなか  民郎」とある。】