雜詠と課題吟

 作句する場合に身邊雜記としての雜詠と、ひとつの題を擧げてする課題吟とがあります。いづれにしても作句する態度には変りがない筈ですが、雜詠は難しいが課題吟はやさしいといふ氣持でなくて素直に当られてほしいと思ひます。雜詠は日記風な人生記録ともなりますため中々捨てがたいものであります。
     ふりあげた拳事なくすんだ齢   千兵
 昂奮してふるへるこぶしをぢつとこらへたのでありまして、そこには作者の眞面目な態度があり、事なくすんだおのれの齢を振り返つてみるゆとりを見出したものであります。おちついた中年の分別を感ずる川柳らしい行き方の句で、そこににじみ出る人生の一齣、怒りをぢつとこらへた一人の人間の姿がよく描かれてゐますが、生活のひとつに十七字詩を得た尊さがあるわけであります。
     残業のある身ひとゝき来る夜店   空茶
 洋服屋さんである作者の偽らぬ感懐であります。きつと仕上げなければならぬ仕事があつたでせう。残り仕事のある身だがせめてひとゝきだけ夜店をぶらついて来るといふ餘裕あるところを詠つたもので、そこには經験の句の意義、雑詠としての持味がうかゞはれませう。
 課題に「お客」とあるとします。
     珍客に遠慮のないを母詫びて   創造
 久し振りに来たお客さんなのだからといふ母親のやさしい心持がよく出てゐて、しかもさうした母親の思惑にもかゝはらず打ち解けた珍客との対應を感ずることが出来ます。
     膝解けば久しい友の故郷訛り   盛人
 「珍客」にとらはれずに珍客を迎へた雰圍氣を出してゐる句であります。課題を廣い意味に解してその題を離れず即した句構となつてゐればよいわけで、殊更課題の字句をどうしても詠み込まなければいけない制肘はありません。尤も「洗ふ」の題に「芋を洗ふやうな混み合い」を想像せねば川柳にならぬかの如き不心得な態度を是正していたゞきたく、また題詠のために個性を殺してまでも迎合しようとする態度は避けたいものです。その点雜詠は自由で飛躍的効果を得られます。