川柳漫画の問題

 時局を風刺する最も辛辣なちからを持つてゐものに漫画があります。大衆性といふ背景がまた歡迎するのですが、その漫画とタイアツプして川柳漫画が創案され、川柳普及の一役を擔つたことは嘗ての「絵本柳樽」のあとを受け繼いだ歴史的意義とは別にひとつの鍵を握つた感じがありました。その鍵とは川柳普及についての微妙な魅力であつたことです。
 漫画家が画材に川柳を取り上げましたので、川柳家は齊しくその成行の好評であることを念願しました。画賛としての価値に川柳詩性の保持が裏付けられるからです。「時局漫画」の表題と共に川柳漫画も大きく漫画の一翼として活躍しましたが、やゝもすれば川柳が漫画に從屬化し、俗調趣味に徹せんとするが如き傾向に風靡しつゝ、そのまゝ大きな旋風となつて川柳漫画は益々大衆性に滲透してゆきました。如何に恐るべき現象を来したかは私たちの記憶に新しい筈です。
 川柳が卑俗的な具象化を目指すものとしてのみ存在が確立した思惑を與へられその迫力の淺薄をいはんより、むしろ如何に川柳が独立し得ぬ漫画の追隨に僅かな自慰を求めてゐるものであるかを強調されたことはたしかだつたと思ひます。たゞでさへ誤まられる川柳認識を一層拙劣なものに落し込み、川柳は滑稽と駄洒落の以外何ものでもないことを深く植ゑ付けました。
 うつし世の生きながらへる自分の周圍に点滅する日常性から、こゝろに傳はつてくる情緒ある暗示性に富んだ詩をつかまんとする私たち川柳作家の誠實さを理解してこそ、漫画家としての画嚢を肥やし、また將来性を約束される画家の生命を育てることになるわけであります。川柳漫画が眞實な意義を横溢させる彩管を揮ふならば、どんなに川柳認識を世の中の人に高める機会となることでせう。
 川柳は笑はせる十七文字で人間のアラをさがすさういつた様相に準據して漫画のための作句態度を私たちは恐るべしと自覺したのです。しかし私たちは何もお上品振らうとは思ひませんし、却つて川柳と漫画との雰圍氣に愛着を感じてすらゐます。殊に川柳の性格からして所謂「俗」についての認識は自らこれを守らんと心掛けてゐるわけですが、民衆に媚びたりする曖昧さを拂拭して、よりよき川柳としての存立に漫画も忠實でありたいものと希求してやみません。