主觀のありかた

 川柳の十七音律を以てしてドストエーフスキイの小説や、シュクスピヤーの戯曲に比肩しようと自負してゐるものは恐らくあるまいと思ひます。対象の表現に於て全体的把握に複雜多岐な心理を活寫し得る小説と戯曲には、スケールの逞しさが展開してさま〲な背景を強く訴へ、文学としての感受性の価値を知ることが出来るわけでありまして、それらに対抗する川柳の描寫のバツクはたしかに弱々しいものであることは否めません。
 川柳の目指すところは小説や戯曲の対象表現にあるのではなく宿命的に長く與へられ傳へて来た十七文字を驅使し試作感情を燃焼させ、一面的背景を全体的描寫への極致に昂揚せしめます。短詩型の限られた枠の中に自由な生活内容を盛らんとするが故に川柳の夢があり、また歡びもあるのであります。また實際生活と遊離せぬ川柳の道にいそしんで育てられてゆく「人間」の世俗的精神は尊ばれてよく、川柳が浮世哲学の一面をもつてゐることを強調したいのであります。
 川柳は思想の壓縮、語彙の省略といふ詩作技能によつてひとつの世界の描寫をこゝろざし、いはゞ感覺の飛躍を遂げて暗示的顕現の十七音律との闘ひでありませう。それが川柳の特性でなければなりません。文学や戯曲に比してたつた十七音律の短詩型から湧き出づる餘情、餘韻にひとつの風格を享受し得さすうるほひがうまれます。事實、川柳は一グループの特殊的な対象を目指すものでなく、誰もが親しみ愛する日本人のうたでありたい。さうかといつて十七文字の羅列を以てして事足れりとするのでも困るのです。たしかに川柳は民衆のうたですから通俗性に狎れんとするおそれが横はつてをります。感動なき文字の陳列、象徴性を文学的に訴へぬ文字の行列、生活感情を強く衝つことのない文字の遊戯、無味乾燥な文字と文字との連鎖からは決して川柳の生命はあるべき筈はありません。
 蓋し川柳には詩精神といふひとつの句境があり、それに到達せんとしておのれの主観の事象に対する強靭と薄弱が詩性を活殺するポイントとなることを相警め合はねばならないのでありまして、殊に川柳の概念が誤まられてきた現實に対しては多くの啓蒙がまだ〲必要視されるからには、一層川柳をこゝろざす私たちの使命こそ大きいのであります。