川柳と俳句との知識

 川柳には季節的感情を必要とするかどうかといふことが考へられます。季節的な表現を約束づけてよいのか、また季節をあらはす言葉にとらはれることを避けねばならぬものなのか、さうした質疑が当然起ることゝ存じます。
    薔薇の香の甘さを圍む夜の膳   典夫
 これは家庭をもつた日記でありまして、薔薇の花の甘い香を圍んで夜の食膳についたなごやかな姿が眼に浮んでまゐります。特に「夜の膳」といふところに一日の仕事を終へて差向ひになつたたのしさがうかゞはれ、明るい歡びを感ずることが出来ませう。この句には薔薇の花といふ夏のことばが出てゐます。しかし決して薔薇の花が中心でなく、そこには薔薇の花を通して人生のひとゝきを詠つてゐるものでありまして、こゝに川柳と俳句との違ひが本質的に證明されます。
 即ち、俳句では季節的なことばを必ず入れて自然を詠はねばなりませんけれど川柳では季節的なことばにとらはれる必要はないのでありまして、そこに川柳が日常生活のあらゆる感興を詠ひ得るといふのであります。
 しかし川柳でも季節的な、例へばこゝに擧げました薔薇の香のやうに、薔薇の花といふ季節的なことばを入れても差支へありません。川柳に於ては自然の或る物を描いても、そのものにとらはれることなく、どこまでもその中心は人間の世界におかうとするのであります。
 俳句は自然を詠ひ、川柳は人情を詠ふ韻律であります。俳句の作句感情の主流をなすものは、自己を赤裸々に露呈することなく、観照の域に敢へて風韻を見出すさび【傍点】の境地なのであり、どこまでも自身の感情の沈潜に置かれるわけではありますが、川柳は日常生活の、生きとし生けるものゝ人間の美しい感情を詩情に寄せて共感を求める人生詩とでも申しませうか、ほんたうに身近さを感ずる親しみの深い十七音律に流れる凡人の人生観なのであります。
 そこで反省してみたいことは、川柳を志す者は俳句とは如何なるものかを理解しておくと共に、俳句を作る者も川柳の意義について一応の知識を得ていたゞきたいことであります。他を知ることによつて、おのれのよさを培ふ自信に滿々たる作句感情のおほらかさを讃へ合ひたいと思ひます。