句の明るさを味ふ

 大空の明るさといふことばがあります。ひろ〲としてこゝろの明るくなるやうなひとつの境地、それは川柳の持ついのちであると思ひます。
 川柳は十七音律の短い詩のかたちをとつた文藝であつて、日常生活から湧き出づるあらゆる感興――所謂人情の機微に触れようとするもので、それはいはゞ民衆のもつうたなのであります。
    今朝もまた窓を見上げて飲む薬   はじめ
 少し健康を害してゐるのでせうか、昨日もまた今朝も空を見上げて薬を飲んだといふ、そこには何ら飾るところのない淡々とした描写のうちに、川柳のもつ明るさに気付かれることゝ思ひます。生活のきびしさを詠ふにしても、そこには生きてゆく私たちのもつ明るさが覗かれるのが川柳のひとつの特色であります。
    裏住居空が小さく見えて朝   方一
 たとへさゝやかな裏住居であつても、やつぱり我が家であります。朝になれば間違ひもなく空がおほらかに明け放たれて来、一日の出発がはじまるのです。ややもすればかうした句境は殊更な自意識から卑屈な内容にしがちなものですけれど、さうした感情を燃焼せしめて、近代人たる泣き笑ひの人生観をかく詠ふ作者の忠実な態度を凝視めていたゞかねばなりません。をかしみの句、皮肉の句、うがちの句の伝統は近代人をして、かく真新しい精神の装ひをもつて私たちに迫るわけでありませう。
    妻と子が待てり あおぞら 蒼いなり   雅重
 これは生活のひとゝきがよくあらはれてゐるうた【傍点】で、一日の勤めが無事了へ家路につくとき、晴々とした気分で、あをぞらの蒼さを素直に自分の胸にうけとつたといふ、働くものゝ尊さが味はれます。また妻と子が待つてゐる家に対する想ひもを、あをぞらの蒼さに描いた夫としてのつゝましいこゝろもちを知ることが出来るわけで、川柳でなければ詠へない表現に、十七音律のリズムが躍動して美しい詩となるわけでありませう。
 生活のすべてを詠ふことの出来る自由な、とらはれない広い世界が川柳する者の前につねにひろがつてゐるのであります。