物臭太郎

 東筑塩尻教育会(開智二丁目)の前庭にある物臭【ものぐさ】太郎の像は、悠然と腹這って無心に大空を眺めている童児で、いかにも天衣無縫なたたずまいを思わせます。
 物臭とは、しごくめんどうくさがりやということでしょう。お伽草子の「物臭太郎」によると、竹の棒を四本押し立てこもをかけただけの小屋に住んで、さっぱり働きもせず寝てばかりいました。
 あるとき、情深い人が可哀想と思って大きな餅をやったところ、早速平らげたが、ひとつだけ残しておきました。遊んでいるうちにひょいっとすべらして、道ばたに転がしてしまいましたが、拾うのもおっくうがる始末。
 なるほどこれでは物臭といわれてもしかたがありません。そうした怠惰の少年が京都へのぼって見出されるようになる物語が人のこころを打つわけは、ひとつに幸運であり、栄達である憧れが、だれしもの胸にあるからでありましょうか。
 物臭太郎像をつくった彫刻家の上条俊介は「初め仰向いて餅をもてあそぶポーズを試みたが、それでは物語中の一瞬間にすぎないから、地に這って瞳を天空に向けた空間的な広がりを想像した」といっています。
 物臭太郎は京に出てみめよき美女を見いだして連れ帰り、甲斐、信濃二国の国司に任ぜられる道が開け、長寿を保って多くの人に崇められたという良縁、栄進の一典型をこの物語に見ることができます。
 天寿を全うしてからは太郎が「おたがの明神」、妻が「朝日の権現」となって信仰を集めたとあります。太郎館跡と称するところは、あちこちに散在しています。
 松本市新村南新に物臭太郎遺跡地の記念碑があり、また島立三の宮の沙田神社にも太郎塚の碑が建っていて、穂高神社には物臭太郎をまつる若宮大明神の祠があります。
 松本市出川の多賀神社は「おたがの明神」として現れたといい、物臭太郎物語一巻を浄写して奉納する習俗が、かつてこの神社にみられたほどでした。
 おたがの本地について横山重の『物臭太郎と私』によると、三説があるとし、その一つは「をたぎ」=愛宕で、萩野由之平出鏗二郎藤岡作太郎と続いて来たが、今はこれをいう人はない。その二は、「おたが」=お多賀で、正保頃の丹緑本の、おたがの本地のなかに「おたがの大みやうじん」とある。その三は、「ほたか」=穂高で、『信府統記』に、「穂高神社の背に、物臭太郎の塚がある」としるされているとあります。