九・十月
朝起きると自分が生きていたかと、あたりを見渡す。そしていつも頭痛をしていることがうるさく思わん、がっかりして、またあたりを見渡している。
もう朝がすっかり明けたのだと感じているが、これが本当な朝かと疑って、少しでも冷やっこい枕の感覚が欲しく、ぐるっと回す。
見違える朝ではなくて、本当の朝なのだとまだ生きていたと自分を抱いてやる気分がよみがえったらしくほっとした感じ。
だが頭痛が続く。うるさいようにしつっこいのだ。殆んどの人が朝起きて、清らかな空気に接しながら、しっかりした自分を抱くなのに、自分は見放されていると思う。
誰でもが朝起きて精にした自分になれるのにどうしたのだろう。自分が取り残されたように、頭が痛くなってはっきりしない。
起きてそのまま頭痛を抱いて目が覚める続く。しかも、どんな日も頭痛を抱かせている。今は見かけないが、両方の額にこってりした絆創膏を貼っている人を見かけたが、麗にしくそして古風に彩つたものだった。
何を言っても頭痛がはびこって五月蝿い。あまりたしかではないが、低血圧の人によくある頭痛だと教えてくれた人がいた。
自分では肚の小さいひとにありそうな気がする。何かいわれてびくっとする性の人に多いように思われてならぬ。
鈴木史桜の「百人一書」の副島蒼海の項に、道を歩いているとき辻に差しかかると、そのまま曲がらずに、いったん立ちどまって、体の向きを直角に変える、そうして、また歩きだす、ここまで来ると、直情径行という気性もたいしたものだ。そんな逸話を残しているほど、副島蒼海は子供の頃から曲がったことが大嫌いだった。
私の父は古道具屋廻りが好きだった。いろんな物を残してある。玄関の壁に、達筆で 白雲 の二字。
右から横書きに、そして左へ種臣。
部屋へ入ると独特の風情で棟方志功の寒山は経巻を抜き拾得は筆を持つの画が床に架けてたのしむ。