五月

 年賀状を貰った中に、来年はもう寄こさないように頼むという寸言を添えたものがあった。俺はいくら生きても、年賀状を一々返事にして書く力量がなくなるだろう返事はしないのはというよりも、その気持ちを失せるからと言わんばかりである。儀礼的で若いうちはきちんと丁寧に返事したもので、書きながら彼をめぐる思い出を引き出してなつかしがったものである。農家出で殆んどのものが中学五年から、師範学校を選んだものだ。学校を卒業したら、きちんと小学校の先生になるのだ。当時、農家は被害に遭って辛苦を浴びたものだった。農家出の者は大抵師範学校を卒業してすぐ学校の専属をつらぬいた。
 殆んどが校長を務めて声を挙げたものである。私は中学校に近く、飛べば二分間で登校出来都合がよかったが、ひやかし半分に「君は学校の一番近くにいて成績が悪い。それがおかしい」とひやかし半分めいて口を利いたのだった。卒業して世の中に馴れて来たある日、例の友人が訪ねて来、ちょっと金を貸してくれぬか、困っているから是非と融通を申し込まれた。ちょいちょい悪口めいた話で気分をよくしていなかったけれど、困っているなら気持ちよく貸してあげようと、何がしかの金を貸して上げた。
 忘れていたのだったが、一年ばかり経ってのこのこと訊ねてくれ「永い間有難う」といってやっと返して貰った。「長かったね、忘れたかね」と皮肉を言いたいところながら、そんなこと言っても始まらない。黙って返して貰うがいい気持ちでよかろうと、ツベコベ言わずに受取って笑顔を見せたら、先方もニコリとした。いつともなく忘れて、消息さえ求めることなくいた或る日、その名前が出て夭折を聞いた。あから顔で元気よく、教職にあって評判がよかったことを友人から聞いた。
 私はやせっぽちながら、あせらず急がず、朝夕四囲の山々に親しみ「民郎々々」と一人呼ばわりして、おのれを見出しては小さな魂をふるわす。いくつまで生きられるだろうと、今から待ち望んでのんき顔といかが。