四月

 上伊那郡高遠町国鉄バスに乗って、伊那市茅野市と結ばれ、城跡は小彼岸桜が殊にすぐれて観客が多い。武田信玄の軍師山本勘助が築いたという由緒がある。
 中信地方松本市も含むが、鬼角狡知に長けた評判が強く、南信地方の温和に比べられる。いやはや以て、こせこせ顔をひやかされるが、どうも冷や汗顔になり勝ちだ。ほんとうだろうかと怪しむ。
   高遠は山裾の町古き町
   行きあう子等の美しき町
と歌っているが、正に静かな町だ。
 郷土館には史料が多くて観覧者を呼んでいるが、高遠に流された絵島の遺品が並ぶ。幕府大奥の女中絵島が、江戸から信州高遠に遠流されて来たのだ。
 と言うのは芝居を見物して俳優生島新五郎と会い、興行ごとに芝居を見物して懇ろになったからである。その後幾たびか逢うようになったと評判にふれた。そういうことがあったため詮議され、絵島は伊豆の俵島に遠島、生島新五郎は三宅島に流された。いろいろ詮議があり、絵島の遠島を改めて信州高遠に替えられた。
   美しい流人大飯喰ひに成り
        (柳多留四篇)
 信濃者は兎角大飯食らいに宣伝されたものである。そして
   浮世にはまた帰らめや
    武蔵野の光のかげもはづかし
と詠んでいる。二度の食事は一汁一菜で厳しい生活を送り、八畳の一室だけに限られた。
 日蓮宗の熱心な信者となり、仏の道に六年を過ごし、城下の花畑の地の圍屋敷に移されて、同じような生活をつづけたのだ。
 絵島を詠んだ古川柳は数多くあるけれども、流罪になったのは僅かで、「柳多留拾遺六編」の
   美しい流人大飯喰らひ也
と、先の句と加えて二句だけ。あまり少ないので研究家に聞いても、この二句にとどまる。
 母袋未知庵の著によれば、絵島が高遠に流されてから三十年に近い歳月を過ごして、佳人も漸く老女と変わったとある。そして元文五年の秋、浮腫(むくみ)が生じ、翌寛保元年三月に一時小康を得たが、四月二日からにわかに発熱して同十日の夕方遂に絶命し六十一歳であった。