三月

 無論、私は画も字も下手で中学校のとき、作品に画いて提出することと指示があった。誰に画いて貰おうかと思案していたら、俺が代理で引き受けたと良い友が見つかり、早速画用紙を持って行き、麗々しく間に合わせていただいた。
 下手だなんて陰口を言いながら見ているわけにはゆかず、堂々と画用紙の裏に自分の姓名をしたためた。字も下手にきまっているせいか、当てはまらない字画のようだった。
 名も忘れない御子柴君は同級生で、二里くらい離れた自宅から通学していた。にこにこ笑顔を絶やさないやさしい人柄で、私にはもって来いの仲間だった。御子柴君で思い出すことは、戦争が始まって大都会から田舎へ疎開したものだが、私のところでも東京へ婚した姉一家が、主人の陸軍司政官で外国正派せられたので、家中で私の家にやって来た。
 姉は高等女学校生徒で、一人だけ誰か世話してくれる人がないかと頭を悩ませたが、思い切って郊外の御子柴君を訪ねたら、前知らせがなかったがもう逝くなっていた。
 こちらからお願いするのも控えたい様子でいたところ、未亡人は都会の人の困っていることを察し松本高女を三里ほど往復して通学することが出来た。私のところでも大家族で、姉と三男の二人だけを世話をし、長女は幸いに御子柴君のところにお世話になった。姉の子の一番上は海軍兵学校に志願していたが、直棲私宅で舞い戻った。
 次男は東京から東北地方へ集団へ行き、戦後松本直棲身を寄せて生活したものだった。夢のようだが、姉の子供は殆ど松本に来たわけで、姉と一しよに暮らしたものだった。主人はイスランプールから東京に帰らず松本で暮らしたが、東京と流通して一家は東京へ帰った。
 長い間だが、今は義兄も姉もこの世になく、長男も逝くなり、長女も今は逝くなった。二男と次男が東京に健在でこの夏みんな私の家に集まり、懐かしく色々話した。私が卒寿なるのも自然の理かも知れぬ。
嗚呼