十二月

 小さい鏡が手元にあって、きまったように自分の顔を見る。兎角、無精者の名に恥じず、さっぱりとした顔を写さないで、鼻の下と顎のあたりがやぶさったい毛が残る。
 応揚にたっぷりと髭を生やさないで貧乏性をあらわす。誠にげすの後知恵の名に恥じないわけで、われながら薄すら笑いの陣を構えるといったところ。
 太ったからだなら、無精髭も乙な味わいをかもすに似るので、ここぞとばかり澄ましたがろうがこんなのには負けないとつぶやいだ方が理屈が通りそうだが、どうなのだろう。
 細帯の女房で内が〆りかね
        柳多留 八篇
 きちんと帯をしめた方が女振り現わして締まるわけだろう。
 私といとこ同士で、丸っきり太った女がいたが、こちらは痩せ身ゆえ雲泥の差があって目立った。伯母のようないとこだけれど、身体の格好が大きいから、伯母や叔母に見えて威勢がよかったわけだ。
 一度だけだが、或る日訪ねたら殆ど丸裸になって「どうも可笑しい。妾が届かない手だから、民さんに頼む、見てくれぬか」と我慢ならないお願いにあずかった。
 やせたわが身に比べたら偉い違いで、向こうから見たら私が隠れてしまう寸劇だ。かき傷らしい朱の色が炎えている。
 「恵(めぐみ)ちゃん、かき傷にきまっているよ。何も気にかけることはないよ」といったら、私に見られているのが、さすがに恥ずかしいと見えて、用がすんだら見せびらかさないとばかり、衣類を被った。
 臨終のとき、私の小さい掌を掴んで何か言いたい振りをした。それだけだった。振り返って見ると父はちと豪快に愛用の杖をふるったことは、母の時のことと一緒にこの欄で書いた通り。
 私たち夫婦も時によって、しんみりした人生感覚に滴ることがあり、見過ごした星霜のうえのいくつかの思い出を語らせる瞬時。見事であり、哀しみであり、厳かであり、またやる瀬ない。
 自分の歳をたしかめ抜く時があると、不健康を下幾日かがよみがえって来たり、あの人、この人の生活を夢見て、私たちの倣わねばならぬいくつかが弾く。