十一月

 毎朝、家を出て滅多に歩いてゆくことがない。どうもこの脚では工場まで三、四十分掛かりそうだ。
 身体の運動はいいことに違いないが、それでも夕方ぐるりと出発点のわが家からやっと三十分散歩して「ヤレヤレ運動をしたぞ」とひとりで満足している。顔馴染みになった人は僅かだが、大抵挨拶を軽くするようになっている。
 道路が狭いのでハイヤーが前方から来るとき、通る側に寄り添う風にして、邪魔にならぬよう心掛ける。
 後方から来たらしく感じると、やはり同じように歩行に気をつける。矢早に警笛を鳴らすのに出会わず、通行人としては注意する方だ。
 帰路に就いたと思われそうなご婦人に限ってと思うほど、私の動作に感謝したような会釈をして下さる。何だか心が明るくなる。
 朝、家を出るとき時間励行型の人にはときどきすれ違う。門限まで几帳面らしく、こちらも少し早目にしたくなる。
 大通りを出て近い勤務の方が、バス利用かと、確かめたりすることがあって、朝の空気は広い。
    遅刻
 ある大きな会社の社長がひどくきちょうめんで、毎朝イの一番に会社へ出てきて、社員の出勤ぶりを厳格に監視する。
 だから、その会社では、ひとりとして遅刻するものがなかった。がある朝、タイピストのひとりが三十分もおくれてきた。社長がしぶい顔できいた。
 「おい君、どうしたんだね?たしか、君のところはこの近所で、地下鉄にもバスにも乗る必要がないはずだが……」
 「ごめんください社長さん。あたくし、どうにもしようがなかったのです。だって、とてもシックな青年が、あとからついてきたんですもの」
 「ついてきたっていいじゃないか」
 「だって、その人の歩き方がとてもゆっくりだったので、あたくし、いつものようにサッサと歩いてこられませんでしたの」
  夏目悌介著
    新フランス小話集