十月
とても早起きなんかと自慢するほどの時間に目が覚めず顔を洗ってから常の如く、ほど近い何やら祀る神社に儀礼式に則ってうやうやしく礼拝する。
由なきこと、悪しき事を打ち忘れたい無心に合掌の幾日かが続くのだ。
晴雨を嫌わず、嵐気に怖れぬ行動は常とは変わらない。
家内は般若心経を賦して倦まず時余に及んでは自若、私はその間別室にて意を揃わんとし謹む。
毎朝酎をうすくしたものを飲みのち粗飯そのものよく噛んで食べたり、世情をよくわきまえて意見を取りかわす。
お互い八十有才、よくぞここまで来たものだと黙って沈着。
悠々自適というと遊んでばかりで何もやることがない自由さとは私たちは違い、商事経営から離れて補助的な注文物の手助けが妻が引き受け、私は細々ながら川柳のはしくれに携わる。
町内の役員になるにはここに来て日短く、未だ手伝わない。
ふと真剣になって生、死を語り地獄、極楽の境地には触れたことはない。
若いときからおしゃれ嫌い、自分はどう思っているのか、家内もどっと歳を取ったものだ。
乞食は乞食
むかし、養老院にいた乞食のばあさん、年は八十才あまり、毎日念仏をとなえていたが、とつぜん座ったまま息をひきとった。
親戚、子、孫など集まり、
「端座したまま、生けるが如く死ぬというのは修行の至りです」と云う。ただ一つの公案(参禅心)のなかったので
「ばあさんが死ぬからには偈(仏徳)の一句もないわけはないのに」といっては、みな大声で泣いた。
すると、ばあさん、急に動いて生き返り「わしや、両方の路を歩いてゆきながら、やっと俗世から解脱できると思うから、まだおまえたちに泣かれるんでとても安心できないんだよ」と次の偈をとなえた。
八十余年は夢のこと
みな気をつけて大事にされよ
いまこそ年をふり別れゆく
それぞれに蛇をみつけてくらすがよい
中国笑話 笑苑千金 三