八月

 畑といえば素人がちょっと気を好くして手入れの少しを見せたばっかりに功を奏するといえば大げさだが、その成果として自然は嬉しいもので、熟したものを見せてくれる。
 ころりと小さいトマトを頬張るとき、酸っぱさと甘さがひろがり気取った振りをして歯に当てるとまた違った味がにじみ出る。
 つぶらの瞳をして、そつと隠れいたずらっぽさを少しでも見せてくれて可愛い。
 もろこしが一段と背くらべ。元気よく太陽に向いて話し掛けているようだ。ずっと立つのと、旦那さますみませんと言いたげなしおれたのもある。遠い北海道のもろこしが応援してくれたらなあと思ったりする。
 横浜にいる長女が子供をつれてやって来たり、賑やかな会合に連れ立ったが、食い馴れないものの歓迎が逆に腹の具合を悪くしてしまい閉口した。私ひとりが苦んで数日寝込んでしまった。
 割に胃腸の方は自信があり、便通の規則通りの習慣と自ら誇っていたから、やはり年のせいだなと痛感して、摂生に注意するようになったとは、われながら不覚の至りとあまり話にもならない。
 南瓜の蔓が元気よく這い回り私を叱咤する勢いが目覚ましいので蘇生したような気持ちにさせてくれる。
 向日葵も活気にあふれ、大きいのは大きい顔をしているように見え、小さいのはしょんぼりではなく、しおらしさがにじみ、小さい声で何か言いたそうだ。
 銀杏がどっしりとかまえ、葉の大群は賑やかに風にざわめく。
 いくつか成りおえた梅の木が、葉をなびかせて来年もまた喜ばしてあげるよと叫ぶ。
 偶々微恙中に読んで気迫を与えられた川那辺貞太郎編「自恃言行録」はこうだ。高橋石斎は書家。明治五年没、五十六歳。
 信仰心が厚く浅草寺に詣でることを怠らなかった。病に伏してからも折を見ては参拝した。
 或る人が「先生も寿命をお祈りなさるのですか」と問うたところ「そうではありません。死んでからも芸道の練磨をしたいからであります」と答えたという。