三月

 川柳手始めの幼籃期のころ、短冊に接したのは
  新開地一寸行っても
   ザックザック*  水府
 昭和初め当地の池上喜作から君には似合いだから差し上げると言って貰った。相手は中年、商売に熱心で、傍ら、数寄の風月を友とする温厚なご仁だった。
 若いうちから正岡子規の俳句革新、短歌斬新等の運動に触発され矢ヶ崎奇峰、胡桃沢勘内には常に傾倒されていたからである。奇峰は教育者で俳人。上原三川も加わり俳句革新の砦として活躍。東都の鳴雪、碧梧桐とも会って流通を濃くした。
 勘内は本誌民俗雑記を連載して好評の友男の父親で、上原三川に学び子規の門下が「馬酔木」を発刊すると聞いて、率先参加、平瀬泣崖の雅号を用いた。
 「馬酔木」が「比牟呂」と合併して「アララギ」となると引き続き加わって活躍した。
 ところで村松梢風の「本朝画人伝」の平福百穂の項にこういうことが載っている。大正二、三年のところ「アララギ」の印刷所の借金を整理するため、平福百穂が半折を描いて頒布した。そのとき同人である勘内が幾枚かそれを引受け、友人の池上喜に額面の絵を一枚買って貰った。とても気に入り、この人の力作を欲しがったが直ぐにまとまった金を支出することが出来ないから毎月五円宛画伯に送金したいと申し入れた。
 画が出来るまで待とうという口約束である。そういうことを勘内から百穂に取り次ぐと、ともかく承知したという返事で、喜作は毎月小遣いで送金し続けた。
 何年かの間、守って画代を怠りなく送っていたが、百穂から勘内へ手紙が来た。「あの送金は中止して欲しい。絵はいつ描けるか分からないのに、この上送られては心苦しいから」と言って来た。
 喜作も送金を中止し、商用で上京するたびに訪問し、両者は直接懇意な仲になったが、絵は無沙汰で一向に寄こさなかった。ところが十五年目の昭和三年の秋になって初めてこの約束の絵が出来た。百穂の兄の善蔵がその作品を携えて遥々松本の喜作のもとに届けに来たのだった。
 それは縦五尺二寸七分、横二尺四寸五分の乾隆紙に、七本の松と泉の流れと、その傍らに岩石のある傑作、画題は「松籟泉声*」と誌してあった。
 百穂は「アララギ」の同人で、自分の家で歌会を開いた。土屋文明、島木赤彦、小泉千樫、斎藤茂吉、中村憲吉等の錚々たる面々である。雑誌の維持費に百穂の画が宛てられた。享年五十七才。
 なお「松籟泉声*」は喜作著作「文芸写真集・子規とその門の人々」に載っている。
 どこから手に入れたか父に聞かなかったが、百穂の「雪と雀」を持っている。ふっと思いついた。喜作の弟鎌三東大教授が子息のための参考書として宮川曼魚「小噺*選集」を貸して上げたことを。