八月

 居室から向日葵がいくつか伸び上がるまま伸びたい姿勢で咲き誇っているのを見る。時期に家族の者が種を蒔き、それが育ったわけだが、わたしは殆んどと言っていい位、手伝わなかった。
 風が吹くたびにゆらゆら揺れる向日葵が、何だか首のようにも似て話し掛ける。その隣に小さなトマトが潤む顔して並び、低い位置で機嫌を添える。
 素人には難しいものか、栽培のうえで適宜な育て方をしなかったらしく、西瓜だけはゴム毬の形までで、その上はご免ねと言わんばかりに、八百屋で買うほどに大きくならない。だから可愛い。小じんまりしたままで納まっている。
 この土地は昨年の冬あたりに手に入れ、家つきで私たち老夫婦が仮寓する現状で、伜夫婦と孫たちが住んでいて、ちょいちょい訪れ、珍菓珍肴にありつけるので、老いた齢を省み、一日一日を謙虚と感慨の念を失いたくない気持ちでいっぱい。
 奇縁というものか、この土地の近くに、私の父の生まれた家が残っていて、不思議のように思われ入手してから、因縁というものを感じ取っている心境もまたある。
 先祖代々の墓が近くにあり通る度に礼拝を怠らない。気分がそうさせるのだ。何か温い宿世の情にひたるひとときを味わうのである。
 南にアパート、西に住宅があり見知らぬままに挨拶して、それに慣れるように馴染みの心得を重んじている。西方ともに犬がいて警戒心と親愛感の吠え方の両面で一致しているので、自他共に住み安いおももちを大事にしたいと思う。
 余生の第一歩が始まった。