五月

 ときどきバスに乗るときがあって、席が空いていると具合がよいが、どうも立っている人を見かけると、こちらも同じように立っていなければならない。
 あらかじめ身障者とか老人とかに許用される席があるのだが、それもご本人がその席の使用範囲を知らずに腰掛けている。それをとがめるわけにはいかず、しばしの辛抱と思う。
 心掛けのよい人になると、立っている人が年寄りと気付いて、さあどうぞと譲って上げるのを見ると、パッと明るくなる気がする。
 料金を収納口に現金で入れる人、バス券を見せる人、回数券を示す人、それぞれ降車するが、回数券を求めるとき少し多目にすると、数で多くサービスしてくれる。買い物回数券というのは、十枚分なら三枚余計に綴ってくれる。特約があって、九時から十七時までの間有効とある。
 九時前に乗車しても九時以降に下車すればよいし、また十七時までに乗車すれば十七時以後に下車してもよいとある。
 だから十七時までに乗ったつもりでも、下車するときこのバスは五時出発だから無効と運転手さんに言われ現金で払うことになる。
 短い時間のバスでは知り合いでない限り、隣合わせの人に話しかけることはないようだ。自分の下車することにのみ気をつかっているせいだろう。ゆっくり降りる人、せかせか出口に走るような人、それぞれ違うのは立場々々で、目的があるからだろう。
 停留所にきまった時刻を待つ人と、いつか知り合いになり挨拶をするが、丁寧な素振り、無頓着な対応だって、どっちも他生の縁のようなものを感じる。先方はどう思っているか、それは勝手だが、あまりこだわりすぎて、警戒心を誘うようでも、かえってこちらが出過ぎと思われるだろう。
 妙なもので、割に知人にバスの中で会うのは稀れ。知らない人ばかりというのが誰に聞いても同じで不思議だ。
 隣近所に住んでいた人が遠くへ移った人と久し振りでめぐり合うのがバスの中だったという奇遇を聞く。動いているバスの中、動いている人の世の篤さと重ねる。