二月

  早とちり、どうも見当違いをしてたしなめられることがある。右耳が難聴で、話し合うときなるべく右側に並んでいると、聴こえるぞ、よかっとと思う。
 左側だと聴き難いので半身を少し傾ける人も僅か、わたしの若いときは伝染病でこの病気にかかると、病で閉じこめられたものだ。
 私は兵隊検査の前の年に病院に入れられた。掛かりつけの医者に診て貰ったとき、その病院に擬似患者がいて、私が感染したのだとあとでわかった。
 だから病室は違ったが、前後して両者とも入院したことになる。
 一種の熱病だから、入院中に中耳炎に罹る者もいて回診のとき、内科、耳鼻科の医者が見える。
 幸い私は腸チフスだけだったから欲張った診察はなかった。無事退院して間もなく、後遺症として中耳炎の徴候を重ね、とうとう耳鼻科医院に通院するはめになってしまった。
 治ったと喜んでいると、また病み出し懊悩の日が続いた。外の医者に代えて見たらと思い、それを繰り返した。
 ところが真珠腫という難病を告知され通院を余儀なくされた。父子二代の医者に診て貰ったことになり、幾十年振りにやっと治った。
 ベートーベンは国内情勢の動乱期に当たり、奇しくも第七交響曲を発表した。聴力を失いかけ、深い境地に入られたというエピソードをラジオで知った。
 ベートーベンと私を引き合いに出すのは誠におこがましいが、芸術家の生い立ちを知るうえで、状況の振幅のほどが伝わってくる。
 松平定信の「退閑雑話」のなかに磐瀬元槙都は盲人だが、江戸へ出て修行するためにいい医者を紹介しようと奨める人があったが、一部屋を借りて住み、似合わぬ大きな米櫃を買ったことで不思議がる人がいたが、ふさわしい家になりますからと言い、のち鍼医の名を上げ家も富み栄えたという。