八月

 終戦の日、田舎住まいの蝉がしきりに鳴くとても暑い夏だった。当時気象情報は公表されなかったが、記録では最高気温三三度。連続十九日目の真夏日と言う。
 松本では空爆が殆んど無く、敵機が飛来しても、ただぼんやり高く仰いで見るに過ぎなく、無防備にも傍観するだけだった。
 たった一回、何やら降下したという話だったが、不発弾らしくもなく不思議がった。
 夫が陸軍司政官としてウクランプールに赴任したため、それに学童疎開の次男、海兵の長男がいない家族の私の姉は、二人の子供と一緒に私の家に身を寄せていた。とても賑やかになった私の家庭だったが終戦の一ヶ月前、七月十五日限り強制疎開で去ることになった。父は遠い親戚を頼り、蚕室を借りることが出来たが、さて姉家族と同居とは行かず、急遽、中学生時代の旧友の納屋に落ち着かせた。さてお互い不自由で、それはどこの家も同じだったが、細々と暮らして健康のみを願った。
 先頃、高井地方史研究会(長野県中野市中央公民館内)の戦後五十周年記念号を読んで見て、私の家族のような強制疎開に遭った記事はなかったが、大凡が戦地に征った貴い体験を披露したものが多かった。
 中には学童疎開にふれたものがあり、遠くからやって来て苦労した少年時代の健気さに触れた生活を記している。
 「馬より軽い命」と題するものでは、軍隊に入って厩当番上等兵に怒鳴られるところがある。馬がトチントチンと落とし始めるとチリ取りと糞かき棒を持って駆け付ける。馬が糞を踏みつけようものなら「貴様、お馬さまにお糞をお踏ませして」と時にビンタも飛んでくる。
 「貴様は一銭五厘でいくらでも間に合うが、お馬さまは何一〇円もするんだぞ。大切なお馬さまだぞ」
 兵隊は葉書の一枚でいくらでも召集出来るが、馬はそうはいかないぞと怒鳴られたという。
 私の疎開した土地にも農作用で馬がいて、よく子供たちを連れて厩に遊びに行ったが、お馬さまの顔は見せずヒヒンと喜んだっけ。