十二月

 昼飯抜きを好む人もいるようだが、それを健康法と自負するのだから仕方ない。長い間きちんきちんと三度の飯を欠かさずに、時間を忘れず決まった席で戴いている几帳面のいじらしさ。団居に通じるといってもいい訳だろう。自慢することでもないし、一般の家庭でも斎しく行われているとおもっても見る。
 近頃どうも食欲が劣って来た。家族の手前、すぐ箸を置くことはせず、うまそうに食べる風をする。その癖、休燗日はなく、せいぜい精励する厚かましい気負いみたいな晩酌が続くのである。
 そんなに飲むわけでない。一合というところ、どんないい機嫌になっても追加せず、怒り上戸とか笑い上戸とか、そういう芸当には縁遠い。
 むしゃむしゃした気分、拙さから抜け出したい時は誰にもありそうだから、それに同調して盃を重ね、知らん振り位は出来る。とても軽く陶然たる面はゆいひとときを味わいたい。
それに頼まれたことは一度もないが、利き酒なんて巧者な部類から離れ、自在に甘んじおのれをそっと抱いてやる。少しだが酒の句を物してひとり澄ましのていたらく。
 寝るときまで酒が残ったと感じるときはすくない。早く寝つく方で、眠れなくて困るよう場合、安眠剤の厄介になる人の話をよく聞くが同情に堪えない。
 でもこの年齢では夜中にちょいちょい起きて放尿を余儀なくされる。トイレに行かず尿瓶で間に合わす。ベッドの上でとても楽だ。
    溲瓶
 文盲の男、客のもてなしに、何が珍しいものに花をいけんと思ひ、しびんを買って花をいけおきければ、客、これをみてふしぎそうに「モシ、この花生けは、しびんでござりませぬか」亭主「いやさやうな名ある道具ではござりませぬ」  (鴬笛、天明頃)
 名器ではないと謙遜したところが奇抜である。松枝茂夫・武藤禎夫訳「中国笑話選」のなかで、恐妻家が尿瓶の片付ける噺や妬きもちの女房が尿瓶を叩き割る噺が出ているが、私は殊勝にも自分で奇麗さっぱり洗う。ちと古ぼけた。