四月

 「信濃狂歌」を連載している浅岡修一さんは上高井郡小布施町に住んでおられるが、葛飾北斎と屋台彩色天井画を合作した高井鴻山はこの地の人である。京都に出、書画、儒学を修め傍ら大塩平八郎に交わり、江戸に出ては国学蘭学を学んだ。
 佐久間象山と知り合い尊王家でもあり、しばしば幕府に進言したり或いは地方振興のために尽瘁した。文人墨客を遇するに厭わなかった。
 慶應元年三月、まだ狂斎と称した頃の河鍋暁斎が信州入りした。元来旅行嫌いにしては珍しいことで、平素人物画ばかりが題材なのに、風景画を志す意味もそこにあった。
 さて高井鴻山を訪ねる目的であつたから、滞在中あちこち写生したり揮毫に応じたものだった。
 自分の絵を「狂画」と言っていた。歌川国芳に学び、のち狩野派の画法に就いた。洞白の死後、鳥羽僧正の筆致にならったという。
 宮尾しげをの「日本の戯画」のなかに、暁斎画の項があり
1、狐が馬に乗り、いたずらをしている
2、浅草観世音の前で雷門の風神雷神が碁のあそび
3、画のことで奉行所に調べを受けている暁斎
 明治の世になって、狂斎の画名は高く響き渡った。狂斎、画鬼、猩々庵、如画入道のほかに酒乱斎、雷酔の号を用いていたほど酒に強かった。
 一度に二升ほどは平気、画の謝礼に金を包んで持って来るより二升提げた方がよほど喜んだ。
 ところが不忍弁天の長蛇亭で書画会の催しがあり、大乱酔、大あばれで警官に取り押さえられるほどだった。
 これを契機に狂斎を暁斎と改め慎慮を契った。
 私の父は書画が好きだったが、さがしたら、猩々でなく惺々暁斎書の落款のある画幅を見つけた。
 瀑布を画いた書軸を七人の男が何やら寄せ合う睦まじさ。視力に弱い方々ばかりらしい。眼鏡を掛けている、指さしている、笑っている、話し掛けている、書軸の裏でごそごそしている諷刺画。