十月

 ぼんやりしていたら電話がかかって来て、ちょっと近所でコーヒーでも飲みに行かないかと言う。誰かと思ったら中学校時代の友人で、高校の先生を幾年か勤めたあと、予備校に教鞭を執っていた。
 事務所をあずかっておる手前、こっちへ来て話さないかと返事すると、家の者に迷惑をかけるから外の方がよいが、でも思い切ってそちらへ行くとするか、電話がすんで、まもなくやって来た。
 竹内延一だが、この君の長女が嫁いだご主人というのが、私の家の隣の第一勧銀の課長で顔見知り満更縁がないでもない。そして長男は富山市に住んで、いまは二人きりの生活なのだ。
 第二学期の初まる九月一日、登校したお昼近くグラリと地震があったと言えば、あの関東大震災かと、おおよそ私たちの歳も知れようと言うもの、長い間のおつき合いだな。
 私が選をしている新聞柳壇の切り抜きを持参して
  梅雨晴れてみな晴れ女との
    クラス会  曽根原てる子
 このところクラス会もさっぱりだねとさびしそうにつぶやく。幹事が腰を痛めて、歩行にさしつかえるので致しかたはあるまいと私が答えた。
 運動神経がにぶく、何とも体操の時間がつらく、毎年秋になると運動会があったが、出場する気持ちにならず、あちらぶらり、こちらぶらりと退屈したともらす。
 それは私もおんなじで、一年生は運動会番組一番の百米がありこれに出場したがビリで、それで興味をなくし、卒業するまで全然出なかった。実力のほどがわかるわけだ。
 運動で競争するとは違って、健康法を教えてくれたのは、戦争がすんで帰郷した藤森聞一。北海道で長く暮らした知恵を郷里に活用オンドル式の家に改築した北大の先生だった。クラス会にはいつも縄跳びを伝授したっけ。
 たまたま飲む薬の話になり、そうだったな、九大に薬学部創設のために尽くした百瀬勉がいたな。とても地味な男だった。
 食うことなら食物史にくわしい日大の内山一也、大磯の松林を思い出すなと話は絶えない。