五月

 後輩だって年は若くても、勉強すればするほど、素晴らしい事でも出来るから棄てたものではない、そこがおそろしい―それて後生恐るべしと言うが、これをもじって校正恐るべしがある。
 後の祭りで、なんでこんなところを間違えたのだろうと悔む。たかが、支社と支店くらいだと思っても、これでは名刺として通用出来ぬと言い張る。
 注文書と書いたつもりだが、註文書では気に食わぬ、どうしてくれるか。そちらの勝手に直されるのはけしからんと怒鳴られる。
 こんな字は辞書にもないのだから、こういう略字が使われているので、どうですか。いやこれで戸籍に届けた字だとなかなか厳重だ。
 もう伝説に近くなって古い話だが、校正の神様は神代種亮と高岸拓川の名があり、あまりうるさいので著作の印刷をしても、やかましいからどこでも引き受けなかったそうだ。
 母袋未知庵もそのひとり。すぐ気がついて訂正を申し込んだ。この頃、親戚の方が遺稿があるから見て貰いたいと言って送って来たが、大曲駒村編著「川柳辞彙」に対する補遺を「あ」から書いてある。きちんと認められている。
 偶、川柳雑俳研究会の清博美さんが、全国川柳誌閲覧借用でお見えになったのでご教示を乞うた。帰られてから調べたところ、「古川柳研究」昭和十四年九月(三号)から昭和十六年十一月(二十八号)までに、十四回連載されており、最初が「あきのかみ」、最終項目が「わくらばに」とわかった。ご親切深謝の便りを差し上げた。
 拙誌昭和三十三年八月号の山沢英雄さんの「未知庵母袋光雄君の逝去を悼む」を読むと、戦後、某書房から「川柳辞彙」を再刊する際、補遺篇を出すことになり、母袋さんが担当、その執筆されたのに再刊は一冊にとどまり、母袋さんは書房から一言の挨拶もなかったとある。
 第二次大戦下のポーランド、家族を奪われ、奇跡的に生きのびたユダヤ人の子ども達による生々しい告白として出版されたレナ・キフレル・ジルベルマン「お願い・わたしに話させて」未知庵御息女夏生訳。朝日新聞社刊。