十二月

 曽根とか中曽根は聞くが、君の姓はあまり通用せぬねと言われるほど、電話帳を繙いてもごく僅かしか見当たらない。中信地方を調べたら、南安曇郡三郷村と松本にどちらも二十数軒ある。
   中曽根首相
  風見鶏アメリカ向けば
    尾はソ連   晴美
の時事川柳があるが、どうも私の姓は川柳に向かぬらしい。他県で石曽根を名乗る人があれば、殆ど長野県出身と見てよかろう。
 上伊那郡飯島町に石曽根という字があるところから、この辺よりの由縁を辿ろうか。
 先きつぽの石だが、弘法大師遍歴のくだり、芋を乞うたところ、意気悪くされたお返しとして、石芋に変容した民話がある。そんな話を聞きなれた土地の路傍に、力石(ちからいし)という石が据えられ、若者たちの力くらべに試用された習俗が残る。
 奈良春日神社の神鹿を殺したものは、石で生き埋めになる処罰を蒙ったそうだ。もともと山伏の間で伝えられたもので、謡曲「谷行」を生んだ。
 熊野の山伏が松若と呼ぶ弟子と一緒に峰入りをする道で、松若が風邪を引く。足手まといになるので、一同止むを得ず松若を谷に落とし、石や瓦をふらして埋めてしまう。
 挙って不動明王に祈るだが、忽ち鬼神が現われ、石と瓦をはねのけて松若を救い出す。(中山太郎「石子詰の形について」)
 先頃、柄にもなくある僧の説教を聴く機会があった。明恵上人というお坊さんの話で、お寺の向かう島の中にたくさん石があり、拾った石に対してラブレターを書いた。どういう気持ちで物言わぬ石に書いたのかわからないけれどその無心さを言うのだろう。
 諺に「石に謎かけて」とあるが恐らく感応ははないのだろう。上人も百も承知でいたと思う。
 近くに日本アルプスを眺める。山の頂に登った記念で石を積むのが習わしだ。大抵の頂上には数知れぬ石が積み重ねられている。
 初めて槍ヶ岳に登ったとき
  岩を抱く大空の死に触れんとし
           民郎
 昭和七年の作。