六月

 四季の子供をコマ絵にして、私製はがきに印刷してあるのをお便りにいただくが、佐藤米次郎さんらしく、津軽弁とでもいうのか、
  夏になれば水コぬくまって
  どじょうッコだの
  ふなッコだの
  湯コさ入ッたと
     思うべな
が添えられ、虫捕りの網袋を肩に、犬が戯れている絵。
 お便りは池田可宵さんに触れて仁川にいて終戦のとき世話人会で同じように奉仕した思い出、それに朝鮮川柳界は盛んだったし、蛭子省二さんも活躍したひとりだったとある。
 省二さんは中島紫痴郎主宰、金井有為郎編集の「湯の村」に(魔十窟談義)連載。古句研究、全国柳誌の批評など健筆を揮った。終戦後、御夫婦で引揚げられ、昭和三十三年八月、愛媛県の知人のもとで不遇のうちに逝くなられた。
 米次郎さんは日本美術家連盟会員、日本版画院名誉会員で活躍なさっておられる。
 五月号のこの欄を読んでのお便りだが、三重県の村田治男さんも同じく、平井蒼太の兄の江戸川乱歩三重県名張市出身、一時鳥羽市で会社員をしていたと明かして下さった。
 古句研究と言えば、川柳博士と言われた阿達義雄さんが五月二十八日に逝くなられた。佐渡の大野温干さん、つづいて大野風柳さんからお親切なお電話があった。
 新潟県で二度ほどお会いしてお高説を拝聴したが、生真面目なお人柄の印象が強い。全国各地の柳誌にご執筆なさったが、拙誌にもご寄稿していただいた。きちんと端正な筆勢がこめられていた。
 先生の教え子であった佐藤久恵さんのお手紙では、国語の時間に学年の枠を取り払った古典研究班があり、川柳の話がとても魅力的だったようだ。
 先生は熱を帯びて来ると、口角泡を飛ばし、手ぶり、身ぶりで話され、「川柳はですね」というべきところを、「川柳はすね」と言われるのが癖だったとある。
 頼まれてPTAの会員に川柳の講演をし、終わって慰労会になっても盃を手にしながら川柳の話を続けられたのを思い出すとか。