五月

 戦争の終わる一ヶ月前に強制疎開の憂き目に遭い、期限ぎりぎりやっと説得して、母親をリヤカーに乗せてわが家と別れた。家族たちはとぼとぼ歩いて連れ添った。
 それから立ち直るまで、しばらく僅かに取り壊しをまぬがれた三階建ての土蔵で過ごす。
  家をぶっ壊されても
      陽は東から
 それが実感だった。戦災に遭われた多くの人に比べれば、微々たる苦難を味わったにすぎないと思った。
 それから幾星霜、民心も落ち着いた昭和四十九年に、道路拡幅で両側の民家が土地を提供して歩道をつくった。小さいビルが建つ。
 装いを新たに気張ったつもりで遥々長崎から池田可宵さんを招いて、朱竹画展を開いた。お陰で多くの人たちに喜ばれ、可宵ありの印象を深めながら戻って行った。
 その後、毎年何かと自作を贈って下さるご厚意に甘えている。長崎に来い、待っていますよと、誘ってくれるのだが、その機会がなくて残念だ。
 九州といえば熊本の田口麦彦さんを思い浮かべる。学生時代だったか、卒業したあとだったが、わが家を訪ねてくれた。手近いところにある松本城を案内した。いまは熟年おさおさ怠りなく、各方面に活躍しておられる。そして電話でお元気な声を聞かしてくれる。
 このところスペシャル番組と称し、何々殺人事件のドラマがしきりに放映され、北海道だとか、すぐ飛んで九州に展開が延びたりして目まぐるしい。
 家族たちと一緒に観ていたあと、少しさかのぼって、江戸川乱歩の話が出た。昔なつかしい作者。誰かが木々高太郎の名を指し、これは弟だと言う。
 私はそれは間違いだ、乱歩の弟は平井蒼太で、おれにとっては忘れられない川柳友達だったと明かす。
 木々高太郎は慶大医卒、本名をもじってこの名があると私が言った。そして「人生の阿呆」という探偵小説が当時評判の名作、たしかその本がある筈だとさがしたら、版画荘第二版が出て来た。エッチングの関野準一郎作の蔵書票が貼ってある。