五月

 いつもきらきら光っている暮らしからでなく、せかせかしていると言った方が正直そうだ。自分をいつわれないで、機転の回し様も下手、何やら億劫がってるみたい、それも誤魔化しにも見える。
 だが逃げ出しはしない。未練がましく、過ぎ去った日が妙に思い出され、シーンとなったりする。身のまわりを眺め、ここに自分が存在していることに執着を覚えつつも何と気構えが生まれる。
 小心で、おどおど勝ち、それで気張ったところを見せたがる。煎じ詰めて、いいわけがない癖に、ひとりよがった恰好だ。
 朝はそんなに早く起きない。飯になる前にきちんと散歩をするつもりでいて、ふっと忘れることがある。句が出来ないでいる時だ。神様に顔を合わせるゆとりごころが失せたのだと思う。
 偉そうに言ってみたって始まらないが、朝昼晩とも一杯ずつ。昼に牛乳一本。
 日中は働きづくめ。よく持つ。だから夜はぐっすり眠る。小用に二度目覚め、すぐ眠れるのが愉快である。
 寝床に「福」の一字の朱拓を架けてある。ここだけは架け替えない。いくらもない骨董は殆んど父が蒐めたもの。自慢にするようなものはごく僅か。蜀山人十返舎一九、鹿津部真顔、その他の貼り交ぜの軸くらい。
 この朱拓は私が手に入れた。と言っても骨董屋から買って来たものではない。私にはそんな器用皆無。版画に興味を持ち出した昭和の初め頃、料治朝鳴さんから頒けていただいた。ごく懇意にして、ちょっとした物をさがしてあげたら、御礼だといって、釣鐘堂小景のエキスリブリスを拵えて下さった。愛書に貼ってある。
 この朱拓、中国山東省泰安の北方、泰山金剛経の経文の、巨大な肌に深く彫りこまれているのから採ったもの。
 鈴木春視の「書道史」に詳しく秦始皇帝廿八年(皇紀四四二年)の刻石。
 「民芸」四月号鑑賞この一点の項にも紹介され「柳宗悦先生は晩年好んで漢や六朝の拓本を軸装に仕立て、床に掛けられておられたと聞くが云々」とある。