二月

  川柳は詩かと問いかけをして、本誌で論争が続いたことがある。そのきっかけは内山一也で、創刊して間もない昭和十二年三月号だった。
  すると四月号に、川柳は詩だと寄稿したのは平井蒼太。そしてそれに並んで、川柳は詩でないと論じたのは山頂帆座。
  昭和五年ごろ麻生路郎の川柳雑誌を知り作句に励んだが、誌上で異色あふれる作風の平井蒼太と親しくなり、文通を重ねて川柳以外の軟派風俗のことも教えられた。
  しばらく論駁し合って賑やかで創刊早々論題を提供して注目されたものである。
  内山一也は竹馬の友、幼稚園から席を共にした仲。ほんの近くに住んでいたので、よく行き来した幼馴染み。
  川柳の詩かとほかに、近くの号で「蓼食ふ蟲」に於ける潤一郎の趣味性を二回連載し、今日までしばしば投稿してくれた。
  その後、お互い生活環境の波の間に間にくぐり抜けて来た世の常、平井蒼太も同じだった。
  戦争が終わったあと、私は選者として東京の大会に出席した。その時、久し振りに蒼太と逢い、頼まれる彼の仕事に手助けをしてあげた。兄は江戸川乱歩、直接お手紙をいただき、蒼太をよろしくと丁寧だった。
  前にも記述したことがあるが、富岡多恵子の「壷中庵異聞」のモデルとして踊り上がった。彼を偲ぶには私にとって恰好な小説。
  内山一也は本誌前月号に「お膳の話」を書いた。専攻の食物諸般に明るく、俳諧食物考の著がある。傍ら一草の雅号を持つ俳人で、昨年、二回目のスイスに出かけ、娘二人、孫二人を連れ、マッターホルン、アイガーの北壁など、名高い山を見て来た。そのとき次の名句を得たと言う。
    炎帝にきらめく尖鋭の峯仰ぐ
  彼を思い、俳諧食物考の河豚の項を読むうち、ふっと江戸小咄が浮んだ。
    献立
  「サアそんなら、そこへ書きや。マズ汁」「アア、汁という字は、どぶじゃな」「ハテ、さんずいに十の字サ」「ヱヱ、おつけのけの字か」  今歳咄(ことしばなし)