十一月

 昭和三年に松本中学校を卒業したので、長い間昭三会という名称で同級会を開いている。変遷があって担当幹事の交替でそれでも、年に一回は必ずといってよいほど続く。
 開催の通知を印刷してあげる関係で私が発送を受け持っているから、万年幹事のひとりでもある。
 九月に開く筈だったのに、何やかやで遅れてしまい、急遽近くの者で寄り合って貰い、相談することにした。
 十一月のうちにという話も出たが、寒さが身にしみるから、いっそ来年にしようということになりポカポカ暖くなる五月に決めた。
 いまは精々二十人くらい集まるだけだが、初めは大勢で大広間が必要だった。県外からもやって来た。恩師も招いた。
 だんだん年を取るに従い、県外から遥々顔を見せる者は殆どない状態だ。だから通知は県内に限っている。
 席上、どうしても民謡を唄いたくなる友人がいて、また始まったかとニヤニヤする連中もいる。
 日本医師会長になった吉報を得て、とりあえず同級会で祝賀しようと計画した時は賑やかだった。談論同発、ちとうるさいくらい話好きでまくしたてた。一人占めにする同級会だったことに批判する者が出て、翌年は大分落ち着いてさすがと思った。
 私にはとてもわからないが、物理学を専攻し、可変エネルギーサクロトン完成、藤原科学賞を受賞した友が、帰郷するのをとらえ、時期を早目に変更し祝賀会をやった。学究肌だけに口重かった。東大時代だった。
 春の叙勲、秋の叙勲の栄誉のときは、本人の希望でもあり、祝賀会を遠慮する者が多く、つい祝電だけで祝意を表している。
 同級会に卒業以来一度も出席しないでいる出嫌いの友がいて、この叙勲を受けたことを新聞で知って早速お祝いの手紙を出したが、あんまり喜んではいないのか、うるさいのか、お便りをいただかなかった。筆不精のせいだろう。
 昭和三年の頃は大不況で農村の子弟たるもの、学校教師を目指したため、同級生にもこの傾向がある。みな傘寿の年ごろとなった。