十月

 信州大学医学部第一外科(幕内雅敏教授)の肝移植チームは十月十六日、同大三例目の生体部分肝植手術を行ったが、そのチームの一員に石曽根新八国手がある。私と同じ石曽根(いしぞね)姓。
 この姓は長野県中央部に多くあり、他県で名乗るとすれば大抵長野県出身であるようだ。
 上伊那郡飯島町に石曽根の字がある。もとは石曽根村で、飯島宿や飯島陣屋があった。天正一九年(一五九一)の信州伊奈青表紙之縄帳に村高は「五百四拾三石九斗壱合七勺 石曽根」とある。江戸時代の石曽根村は飯島陣屋のある飯島町の本村であった。
 江戸時代、伊那往還が町の中央を南北に通じ飯島宿が設けられ幕府直轄地となったのが寛文一二年(一六七二)で、延宝五年(一六七七)に飯島陣屋が置かれ、延々一九〇年間にわたった。
 しかし倒幕後、旧幕領を尾張藩預りとし、伊那県を設け、この飯島陣屋は伊那県庁となった歴史がある。(長野県の地名)より
 石曽根村と石曽根姓とのつながりは、祖先をさかのぼるきっかけを与えてくれるかも知れない。
 ところで私の名の民郎だが、これは特別調べたことがないから、どのくらい存在しているか分からない。
 ただ俳句の畑に大島民郎という方がおられることをうすうす知っている。いつだったか、あなたの句を紹介させて戴くのでご諒承をと、テレビ局から報告があった。どういう句か記してなかったからそんな気にもかけず仕舞い。
 九月下旬、日本テレビ系ズームイン朝の詩に貴作品を使用させていただく便りがあり、はっきり
  密林に落日ゆがむ鳥兜
と添え書きがある。これは私の作品ではないので、俳人大島民郎氏の句ではないかと一応返事した。
 俳人の藤岡筑邨さんに照合したらこの方は秋桜子門下で、信州の高原の句をたくさん作り(高原派)とも言われており、現在は堀口星眠の「橡」の幹部同人、奈良市在住、大正一〇年五月五日生まれと教えていただいた。私の方は県内のラジオ放送「情報アラウンド」の冒頭で時宜にあった一句を披露して貰っている。