三月

 なんともし、大屋さん。夜ばいにいったやっを、まめどろぼうといふハ、どふいふゐんねんで御ざりやしょうね。いへ主ハテ、きさま。女のかくし所をさしてまめというハサ ヘヱ、わっちらんかかアなんざア、なんだろうね いへ主 ハテ、素人じゃから白まめサ  ヘヱ、げいしゃャ女郎のハね いへ主 くろうとじゃによって黒まめさ おんばのハね いへ主大キイから、なた豆トでもいふやうな物さ 十六七な娘ハね いへ主おしゃらくまめさ こいつハいい。そんなら天人ハどふいふもんだね。 いへ主 よっほどかんがへて、ハテ、あれは、【山形節回し記号】空まめサ(種がしま、文化八年頃刊)
 そら豆は蚕豆とも書く。本草綱目に、老いた蚕に似ているからとあるが、蚕の飼育期間に熟成するところからとの説もあるそうな。
 針仕事をしている最中、誤って針を呑んだとき、蚕虫を煮てニラに混ぜて食べたところ、針が便通と共に出て来たという話もある。
 この江戸小咄は豆のいろいろを通振ってあてはめたシャレだが、豆とは大豆と決まったわけでなく小豆とか、うずら豆とか、落花生隠元豆もある。別の小咄では隠元豆を禅寺の尼に見立てて笑わせて見せる。
   塀内や一つの垣の
     隠元豆  青々
 承応三年、隠元禅師来朝帰化したときの機縁で弘まった。
 安藤幻怪坊「川柳歳時記」を読んでいたら(冬奉公人帰る)の項で(二月二日、信濃越後より旧年来り仕へし奉公人主家の暇を得て国へ帰る)に寄せて
  豆いりをかみかみ信濃
    いとまごひ
        柳多留四篇
を挙げておられる。
 豆のなかで珍しいことに明治六年、オーストリヤのウインナで開かれた万国博覧会に我が国から大豆を出品した事歴がある。ウインナ大学ハーベルランド博士の発表で、蛋白と脂肪に富んだ栄養食糧品である推奨が動機で、欧米各国に栽培されるようになった。
 食べる豆でない(まめ)は、丈夫をあらわす。近くの安曇節に
 まめで逢いましよ又来る年の
  踊る輪のなか月の夜に