二月

▼本誌雑詠「大空」のカットはいまは逝き丸山太郎さんの筆で、長く愛好のよしみを久しうしているが、思い出すとお互い二人共、喪に服するお正月を迎えて、どこかへ抜け出そうと考え合わせ、伊那路に連れ立った。
▼一泊は飯田と決め、宿も予約した気楽さで、途中、赤穂に居住する向山雅重さんを訪ねた。コツコツと物書きをしておられた向山さんは、私たちのために炬燵を囲んて、薀蓄ある炉辺談話を聞かせていただいた。
伊那谷をくまなく歩き、民俗を拾っては記録をつづけられ、当時「山村小記」の著があり、狩猟、飛騨ブリ、山のわらじ、かんじきなど探訪記録で、図も入っていて興味深い内容である。
▼垂れ下がった眉毛で、いつもニコニコ。こちらで話すことで気付いたところは、ポケットから手帖を出して書かれたものだった。その時「続山村小記」の出版する話が出、私が丸山太郎さんの木版画を表紙にしたらと申し入れると、すごく喜ばれ、それがきっかけで黒一色の(桑の株)の簡潔な装丁によって昭和十八年秋に世に問うことが出来た。題簽は斎藤茂吉書である。
▼戦争が終わったあと、宮尾しげをさんが伊那の遠山祭取材に行く道すがら、向山さんたち教員の歓迎会に招かれ、酒に弱いしげを画伯を強要したばっかりに、酔眼足をよろめかせ、囲炉裏に突っ込み、大火傷してしまい、先生たちこれには周章狼狽させられた。
▼向山さんは「信濃民俗記」「続信濃民俗記」「山国の生活誌」など、民俗学者として偉大な功績を讃えられ、その温厚の親しさと相俟って悠揚迫らざる態度が好ましかった。忘れられない人である。本誌にも屡ご寄稿を賜わった。
▼昭和六十一年一月、病床に臥すようになり療養をつづけられたがことし一月二十四日に他界されたのは惜しみても余りある。
柳田国男賞、昨年は日本学術振興会が山岳、山村などの優秀な研究に贈る第二十五回秩父宮記念学術賞を受けられた。いま私は向山さんの随筆「泥鰌汁」表紙版画、挿絵の丸山太郎さんの本を手にして、うちで印刷した追憶にひたる。