六月

▼山路閑古さんが昭和五十二年四月十日に他界された。その追悼号を出そうと思い立ち、三高時代の同級生で莫逆の友人である比企修さんに相談を持ちかけ、多くの執筆者の快諾を得て、拙誌九月号に間に合った。
▼何かの折、まだ戸山町におられた頃の比企さんを訪ねたが生憎留守で、また後程、もし閑古さんにも逢いたいと、欲張りなことを伝えて一旦辞したことがある。
東京学芸大学の学生を引き連れて、浅間温泉に一泊するお知らせがあり、宿舎を訪ねて比企さんにお会いした。奇縁といおうか、比企さんのご薫陶を受けていた窪田晃君は、川柳しなのの同人の窪田正寿さんのご子息で、それが話題になった。
▼比企さんは古川柳研究の傍ら、俳句にも短歌にも関心を寄せられていて、実作に励まれそれぞれ仰ぐ師を持ち、句集「玄冬」をまとめられ、乞われて百部限定で私のところで印刷した。昭和二十五年から三十四年の作品を編み、発行はその翌年である。
  初鏡なほわが頬に紅あり
▼そしてまた昭和四十二、三年から五十四年までの歌集「多面体」もやはり私のところで印刷した。
  モーツアルトの曲も啄木の
  歌もみな若しと思ふ
    わが老いも深き
▼若くしてクラシック音楽に心を動かしていた比企さんの感懐。昭和五十四年発行。喜寿自祝。
▼厳父は鉱物学、地質学専攻で京大教授であったから、比企さんは自然科学を選ばれ、理学部化学科を学ばれた。英語のケミスト(化学者)を捩って蝉人(せみひと)の雅号を持っている。
▼「化学ノート」は昭和三十二年版、科学語が多いが、古川柳、俳句などを採り入れて、一風滋味を湛えた指導書。蝉人の名で「日本小話集」「川柳小話集」があり、また「川柳百人一首」につづき「川柳と和歌」の労作がある。川柳しなのに数篇執筆して戴いた。
▼数年前、わざわざ松本市にいく日も滞在して近辺を散策なされ、拙宅にも寄って下さった。去るとき飄々とした後ろ姿が浮かぶ。この五月十三日訃報がもたらされ、思い出深い人を偲ぶことしきり。