十月

▲戦災にくらべれば強制疎開の立退きは、強制とはいえ自発的で、爆弾の大被害を蒙ったわけではないから、精神面から言ってもそれほどの打撃ではなさそうだが、自分の住まいから離れることはやはり惜別の情を深くしたものである。
▲前号でこのことを書いたところあちこちから報告を寄せられて、まだこの記憶を失いたくない人達のあるのを感じた。土蔵だけは残して行ってよいというお達しで、のち戦後の再出発に利用したわけだが、やはり土蔵をそのまま残し疎開して暮らしていたところ、戦災には免れたのに、付近の出火に遭い焼失したという体験をお便りしていただいた方がある。
▲道路から奥まった空地を隔てたあたり、私所有の土蔵があって暫らく暮らした。
  家をぶっ壊されて
    陽は東から
という一句が実感だった。そして「壁の窓」の群作も作ったが、自分に言い聞かせるような情感をこもらせたと頷いてみせた。
▲当時市役所に勤められていた人が寄こした手紙によると、町内にある電話局に近いということで、松本市公会堂も一階の北に伸びた大広間を取り毀し、表側の二階建ての部分だけ残され、不安定なあぶない格好に驚き、古材が久しく中央公園広場の一隅に曝されたという。
▲また今の日本民俗資料館のところに旧松本中学校講堂その他を利用した青年学校があり、このなかに昭和二十年六月、上土町の市役所の一室から移った義勇軍の事務所が置かれ、勤労動員や建物疎開の仕事を引き受けたそうだ。
▲自分の家を壊されるのを見るに忍べず、後になってすっかり空地になった我が家の跡を眺めた遣る瀬なさ。そんな悔しさを同じうする者たちが松本市強制疎開者同盟を組織しその筋に嘆願を申し入れた。会長は神明町の中村さんで、私は総務会計を引き受け、岡谷市にも同じ組織があって、共に連絡交渉をとり合った。市役所は勿論県庁にも出掛け陳情に及んだ。享受は思わしくなかったが、止むに止まれぬ腹の底を鼓舞した。長野市の郷土研究「長野」に(戦後体験)を乞われて一筆を草した。