七月

▼また部屋を変えて、三階から二階に移った。小さなビルをこしらえてから、テナントに入ってもらったり、空いている部屋を展覧会に貸したりしてやり繰りに供した。
▼ここに住居をかまえてから八十有余年になる。もともと武家屋敷だったこの町筋は、維新のとき土地を譲り受けて町民が軒を並べて久しい。隣接の建築物を保存する指令が出て、終戦一ヶ月前に強制疎開に遭い、一時郊外に借家していたが、思い切って晩秋、破壊を免れた土蔵に一家が戻ることとし、一年経てもとのように工場を建てた。
▼幾変遷、いまから十四年前、道路拡幅の計画に協力して幾分下がって新築に踏みきり歩道も出来、松本城にほど近いメインストリートの模様変えは一新した。
▼倅と共に二夫婦、孫たち、別居しない口約束で一緒に寝食を同うする生活が続いている。今度暮らしの将来を考えて、二階から三階に私たち夫婦は移って来た。
▼いままで夜寝るとき蒲団を並べることがなく、T字型を守って来た。二階の部屋は狭いので、並んでも互い違い。家内のひとりすましの考案で、私のいびきがうるさいということの処置である。
▼窓際の遮断機を棒で寝たまま操作し明かりとりを加減する。家内はなかなか巧者だ。そしてもうひとつ、この棒は活用方法を持つ。
▼私が知らず知らずいびきをかくと、家内は闇をすかして私に喚起をうながすべくこの棒で蒲団のうえを叩く。一回でやむようだが、止まないときはまた叩くらしい。
▼家内の枕元にこの棒が咄嗟の時機をねらっていることになる。ふっと私が夜中に目が覚めて耳を澄ますと、なんとなく家内はかすかないびきを立てているのを聞く。私には棒がないのでちょっとあきらめ、寝付きの早い私はいつとなく寝入っていく。
柳田国男「母の手毬歌」のなかに、棒のことが出てくる。もともと運搬用に何かと利用された歴史があり、歩荷(ぽっか)の荷物の工夫など身近なものがちらつく。
▼私のいびきをやおら制止する家内の棒は、運搬用とは違っても実利性の点ではある一面を持つ。そう思う私は殊勝か、笑止か。