十月

▼ずっと空高く敵機らしいものが爆音も遠く聞こえてくる程度で、住民はこともなげに仰ぎ見ていたに過ぎない。つゆさら爆弾投下の危険を慮る気はせずに興味深げだった。
▼商店は軒を並べてひっそり、売るものも控え目で、戸で仕切って入口を狭くし、何か別なものを売ることを志した。私の家でも工員が召集でとられ人数も少なく、女工員が注文を僅かに引き受けた格好で取りつくろう日が続く。
▼正式にお達しがなかったが、どこからとなく、私の住む近所が立退きを命じられる日が迫っているという噂が流れた。長く住んでいた土地、わが所有する土地から、強制的に追われようとは思っただけでゾッとした。
▼しかしそれがほんとうになって昭和二十年七月十五日限りで強制疎開させられることが決まった。頑固一徹の父だったが、戦争のための逢着した運命に抗せられず、遠い親戚を頼ってやっと落ち付く場所を見つけた。
▼東京の戦火からのがれるべく姉一家がわが家に同居していたので、私が学友の納屋に一時厄介になることをお願いして許しを得た。そして私の一家と姉の一家とは六キロほど離れ離れに寝食を分った。
▼必要な家財道具だけとりまとめ、破壊からまぬがれた土蔵のなかにあとを積み込んだ。白壁は黄土色の迷彩に塗りたくられ、あの当時、土蔵だけは取り残す配慮があった。堂々とした三階建てである。
▼いよいよ一家が移り住む日、母が執拗に柱に取りすがって嘆いたことを思い出す。私はリヤカーに母を乗せて、感無量にわが家を愛惜の情で見やったものだ。
▼姉のところも同じように農家で親切にしてくれた。蝉がしきりに鳴いて、樹々のみどりの印象が強かった。小川が流れ、末娘は三歳でこの水とよく戯れた。
▼わが家が全壊される日は知っていたが、とても見に行く気にはなれず、埃っぽく濛々と立つすさましさが脳裡を打ち叩く。
疎開して一ヶ月、八月十五日の戦争体験は重苦しい夢のような三十一日目であった。そして晩秋、打ち揃って土蔵に戻り住み、再興の気運に立ちはだかってゆく。