七月

▼髪の毛も退却の部類に属するので、刈って貰う機会が少なく、あまり理髪店へは行かない。家族のものにもういい加減に当てていらっしゃいとすすめられる。そう言われてすぐさまウンといい返事はせずに、二三度くり返されたあとやっと腰を上げることになる。
▼行きつけの親方というのが東京にいたとき、市丸の顔剃りを始終頼まれてねというのが自慢で、またかと思うほどよく聞かされたものだ。市丸は若い時浅間温泉の花街の流行っ妓だったことがあるが松本出身。
▼少年時代はそこの家からもっと近いところに通った。子供をからかうことが好きな床屋主人で、頭を刈ったあと、顔を剃り出すとまたやり出すから覚悟しなけりゃと思っていると、その通り顎のあたりになってクスクスと片方の手で喉元をくすぐるのである。くすぐったいので笑いながらおじさんの顔を見上げるのである。おじさんもこれに応えて笑っている。
▼そのおじさんがどこかへ引っ越したので、それよりももっと近い床屋さんに出掛けることにした。娘さんばかりの子沢山で、愛想のよい親切な優しいお兄さんみたいな年柄だった。昭和恐慌期の満州移民を志して一家渡満を決意し別れた。長く空家になっていた。戦後別の人が住むようになった。
▼着のみ着のままという憂き目を背負うて帰って来られた。暫らく他に身を寄せていたが、元の場所に住めるようになり、主人を満州で逝くした奥さんが娘二人だけと共に暮らすようになる。
▼行方不明だったとあきらめていた娘さんが、中国人と結婚して許しを得て里帰り、一ヶ月ほど母子と睦じく寝食を共にしたが再び中国に戻って行かれた。奥さんはお丈夫、娘さんが養子に迎えられ、お孫さんも縁づいて幸せだ。
▼この主人に剃って貰うときは喉元をくすぐらなくて安心だった。生えるとまでは行かぬひげを丹念に剃ってくれた頃、いまの無精ひげと違ってなつかしい。それよりむしろ髪の毛は薄くなるばかり。江戸後期、名古屋の大屋孫彦は白髭を蓄え髭翁と自称し狂歌がある。
 正直のかうべもいたくはげにけりすべり給うな宿る神達