三月

▼歩道をつくることが目的で、両側お互いに引き下がって家を建て
た。資金の関係で少し庇を削り取ったり、改めて家を改築するものもいて、一年のうちに揃って道路拡幅の祝いをした。それからもう十二年が過ぎる。
▼階段の昇り降りに身体を動かす習慣が出来、足腰を強くしているつもりでも、ちょっと疲れを覚えるときがある。近江砂人さんが手紙を寄こし、階段の昇り降りには必ず手摺りに添う事にしているとあり私にもすすめて呉れた。
▼そんなものに寄りかかるものかと気張っていたが、やはり手を添えるようになっていった。駅の昇降にも必ず手をかける。年寄りには一度滑り落ちたら取り返しのつかなくなる傷害で、快癒までに相当日時を要するから砂人さんの忠告のお蔭である。
▼同じ「川柳番傘」の磯野いさむさんがいつだったか、松本の知己を訪ねて来られたおついでに、拙宅にも寄って下さったことがある。岸本水府さんの実筆の墨書き句集を大切にしていることを話したら喜んでいただけた。
▼いさむさんを始め榎本聡夢、奥田白虎、梶川雄次郎、北川古葉庵、高木孝太郎、西村左久良さん共々、七人の川柳句碑が堺市豊田の小谷方明さん敷地に建立された。おめでたいことである。小谷さんとは長い間の交際で熟知の仲。縁というものは不思議なものとつくづく思った。
▼「番傘」三月号いさむさんの句
  杉田久女の好きな妻には
     さからわぬ
 奥さんが俳句をたしなまれていることはお似合いのご夫婦、羨しい限りである。そしてここでも松本と結びつくのだ。
▼久女の父は赤堀廉蔵と言い、松本の士族出身、官吏として鹿児島在任中に久女は生まれている。高浜虚子門下、大正末期から昭和初期にかけて注目を浴びた好作家。数奇の運命にもてあそばれ、晩年は不遇だったが逝くなって松本清張「菊枕」吉屋信子「私の見なかった人」などに採り上げられている。(藤岡築邨「信濃路の俳人たち」)昭和五十八年夏、松本市の城山に
 あぢさいに秋冷いたる信濃かな
の句碑が建てられた。