一月

▼農家の人々の冬の副業といえば雪国のせいもあって、ワラグツづくり。それに専念していた矢先、ナイロン製品の目覚ましい開発の影響で需要を絶たれた。いいことにスキーが盛んになり、大衆化された民宿施設の収入に恵まれて忙しい日々がつづく。
▼明治十五年一月、新潟県高田市(現上越市)でオーストリアのレルヒ少佐が、一本杖のスキー技法の普及に努めたとされている。いまのように二本杖を使うようになったのは大正時代からだという。(「飯山の四季」より)
▼雪が降り出し、スキーシーズンの到来を告げると、都会に居たたまれず勇躍スキーをかつんで入山する。雪焼けしたスキーヤーが拠点の松本駅の待ち時間に合わせ松本城を観に通るのに出会う。若者が多い。中に女性も入りまじる。
▼スキー界の草分けで、オリンピック銀メダリストの猪谷千春さんを育てた父、猪谷六合雄(いがやくにお)さんがこの一月十日に逝くなった。享年九十五歳。
国後島で生まれた千春さんを連れ、家族で赤城、青森、乗鞍高原などを転々と移り住んだが、私の家の近くの歯科医師とごく懇意でスキーを教わった縁故があり、昭和二十四年夏、医師宅に滞在したことがある。
乗鞍高原を去って志賀高原丸池の進駐軍用スキー場整備をなさっていたのだが、何かの用で松本に来られた。同じ隣組で猪谷さんがいるから話に来いよとすすめられてお会いした。
▼そのとき寄稿を依頼したら早速「川柳しなの」九月号に「生きてゆく日々」をご執筆下さった。既に「雪に生きる」「私たちのスキー」の著があり、闊達な筆致で魅了させられた読後感を持つ。
▼「元来、私はうっかりものに手を出せない厄介な質らしいのです。と言ふのは、生来ものに病みつき易く、そして一旦病みついたら最後まで、中々そのことから逃げられないやうに出来てゐる人間かと思ひます。」
▼こういう気性が千春さんを銀メダリストに育て上げたのだろう。温和な対応のなかに脈々として闘士をうかがわせた印象が深く、なつかしい。