六月

▼年に一回、古川柳ゆかりの探訪ということで二三度お邪魔した。浅草雷門前に集まった愛好家の面々、今戸焼の窯元、吉原大門、廓外のけとばし屋で昼食、生まれては苦界死しては浄閑寺(可酔)をお詣りしたりし、あとは時代を越え、ひと息いれて一葉記念館を観た。
▼また深川八幡の鳥居をくぐり、岡場所の嬌声を追想しながら、やがてとある寺に案内された。三井親和(しんな)の墓がある。
▼親和の伝記は(信濃の人)とあるだけだが、父は信州高島出身。高島藩城主諏訪因幡守忠晴の弟、諏訪五郎左衛門盛条の家来三井孫四郎之親の子として、江戸深川の役宅に生まれている。
▼私も信濃の住人、由縁おくゆかしく墓前に頭を低うする。
  どの祭にも深川の親仁出る
      (柳多留一九)
▼細川広沢の門に入って書道を学び、篆書に秀でのち弟子をとるようになり、深川の親爺の愛称を普くした。
▼江戸市中の神社仏閣の奉額や幟を寄進、その書は多くの人に馴染ませたという。
    看板
 多葉粉屋、親和に「諸国名葉」と、桐板に買いてもらひ、店先へかける。隣の浪人、「御亭主、見事な看板でござる」。多葉粉屋、鼻をおさへ「これは迷惑」
 (民話新繁、安永十年刊)
▼親和の才筆を讃えた筈なのに、どう勘違いしたのか、自分の一物を当てこそぐられたと、思わず鼻を隠した。よほど大きな鼻の持ち主だったのだろうか。
▼案に相違して、役立たぬとあきらめている女房が、自分の亭主の抜群の名鋒を買いかぶられ、これ見よがしに亭主の鼻を指でパチンと弾いてやり、「嘘つき嘘つき」憂さを晴らす艶笑咄がある。
▼親和はこんな逸話に恵まれる。
 夜になって帰宅する途中で、ニ三の男に金の無心を迫られる。親和は少しも驚かず、どうしてこんなことをなされると問いつめ、さてさて往来では話にならぬ、おぬしは浪人だが、浪人なら浪人の心得を聞かせ申そうと皆の者を連れて行こうとする。すると皆々は、粗忽を申して相済まぬといって立ち去ったという。