四月

▼北は北海道から南は沖縄にいたるまで、各地を旅する見聞記を拙誌に連載した読みものが一本になって「旅の鞄」を上梓した。丸山太郎さんはありふれた田舎の風景や朽ちかけた建物に愛情を感じ、土地のありあわせの食べものに興じた。滅多に旅に出ない私にとってこれはよい好餌で、むさぼるように愛読した。画のさばきも冴えて素人っぽさを越えている。
▼私より一つ歳上、版画の本を見せたら早速会得して彫り始めた。荒削りのところで抑えを利かし、小さいものから大きいものまで手がけた。
篆刻にも志し、若い頃の荷風庵の銘のある雅印をこしらえて貰った。私が自著したのを彫ってくれ座右の署名印にしている。
▼戦後復刊した菊判半截の表紙に手彩色の版画を毎号制作してくれ小さいが読者に気に入られて好評だった。食満南北さんはわざわざ好尚に堪えるといってお手紙をいただいたことがある。
▼昭和二十三年から菊判になってからも表紙版画を引き受けて長くつづいた。看板のいろいろ、ろうそく屋、きせる屋、うどん・そば屋、みそ屋、茶処、洋傘直し、扇子屋、数珠、めがね屋、金平糖、焼芋屋、足袋、帳面屋など連載。
 次は町の景物、初音売り、寒参り、チンドン屋、金魚売り、善光寺詣、かうもり傘の修繕、虚無僧虫売り、飴売り、サーカス団、たうがらし売り、救世軍
▼松本では民芸鼓吹に先鞭をつけたのは丸山太郎さん、柳宗悦氏と昵懇、よくうまがあった。自分の蒐集する民芸品を一堂に展覧する松本民芸館を建立した。それだけに民芸に造詣が深く、表紙版画はその民芸にうつる。国画会員に推され活躍、卵殻貼り工芸にその抜【ママ】をそそぎ、多くの共鳴者を誘った。
▼昭和十七年暮春、小谷方明さんが父の九年忌、丸山さんが父の四十七日忌、私が弟の百ケ日忌に合わせ「みかへりの塔」の小冊子を有縁のひとびとに頒けた。それぞれ版画を添えてある。
▼丸山さんはあまりにもだしぬけに四月五日、心筋梗塞で急逝せられた。著作「松本そだち」「鶏肋集」をいま手に置くと、しきりに「みかへりの塔」が私を呼ぶのだ。