十一月

▽いまの大手三丁目五番十三号と新町名に変更されたのは、本誌を調べたら四十年九月号からとなっている。地方史を専攻する学者たちの命名と聞くが、県内でも割合早かったようである。年を経るに従って、旧町名を懐しむのあまり早計であったという批判が出たが既に遅く、定着してしまった。
▽今もって新町名に馴染み難く、昔の町名を口にする傾向があったりして、その要望に応えたつもりで、新町名の下に(大名町通り)とつけている。
▽郵便局の配達には利用価値が多く、明細で直実な確認を摑むことが出来て評判がよい。一時は大手三丁目だけでは町名不確実の付箋が貼られ、発送人に返戻されたりして不評を買った。親切をモットーにするサービスが欠けたということだった。
▽大名町という旧町名はたしか福岡市あたりにあったと記憶する。私たちがこの町に住めるようになったのは明治維新後で、士族から譲り受けたもの。もとは高禄を食んだ武士屋敷のあったところから町の歴史は明治維新後だから古くてもせいぜい三、四代の家系に過ぎぬ。父がここに住みつき私の孫で四代目になる。
▽明治末の生まれ、性の合った川柳を知り、本誌を創刊したのは十二年一月号、ビルを背景に万歳二人を配した二度摺り版画。これよりさき、十一年四月から八月まで菊判四頁ずつの句会報があり、いわば準備号で、やっとページが整ったきっかけで創刊号発刊とし、八月号の表紙は県内の須坂の小林朝治さん七夕雛の二度摺り版画、十三年には張子の虎、七夕奴提灯、十四年には押絵雛、古型牛伏寺厄除牛。十五年には四国松山の前田五健さん信濃情緒の版画が七月号まで、代って八月号から青森出身の関野準一郎さんの子守の版画、十月号に至って雑誌統制に遭着、廃刊の憂き目を味わう。
▽戦後、二十一年一月から復刊、まもなく松本の丸山太郎さんの表紙版画がつづく。菊判半裁、翌二十二年まで。翌二十三年からいまのA5判になった。四〇〇号は五十一年の七月号、四五〇号の五十五年の九月号を閲して今日に至っている。