九月

▽伜が商用で上京したが、それを追うように、学校の授業が終るやいなや鞄をほっぽり出し、孫が新宿駅を目指した。土曜日である。いいことに学校の先生らしい人たちと乗り合わせ、一緒におともを頼むとせがむと引き受けてくれた。
▽孫は落語に興味を持っていて、じかに寄席を聴きにゆくいい機会と、それをねらっていたことになる。帰京してから聞くと親子で肩を並べ、とある寄席にたしかな手こたえを感じながら傾聴したという。プログラムを大事にし、教科書のしおりにもなりかねない。
▽孫と同じくらいの時代があったと思っていた矢先、小学校六年生の同級生が、久し振りに相州から入信、義理をすませて松本に寄ると報を得たので、これをのがさじと、近くにいる同級生に伝えて、ささやかな会を開いた。
▽本誌昭和十二年四月号と五月号に「『蓼食う 』に於ける潤一郎の趣味性」上下を執筆した友人で、それを示したら感慨深げに見やったし、私はその頃「松本地方俗信抄」を連載している。
▽彼は旧中学教師、のち戦時志を立てて台湾へ、終戦、着のみ着のまま内地へ幾変転。さらに大学教授となる。この頃の「国文学」食の文学博物誌には、「近代の文学者十二人の食生活拝見」を執筆している。
▽本誌昭和十四年十一月号十二月号に三十枚書いた「美しの小屋にて」の神森海太郎も同級生。
▽集まった料亭はいまは逝き同級生の未亡人経営の思い出の部屋。たった九人だったが、みんななつかしい顔ばかりで、大正十一年卒業以来という対面があり、なんと六十有余年振り。
▽小学校五、六年、中学一年のみ松本にいただけの友がいて、長く交際した関係で、遠く鹿児島に前以て知らせておいたら、料亭へ通話あり、なつかしい声を九人それぞれ交し合った。この友は父が日本銀行勤務で三年間松本にいただけだったが、長く文通をとり合っていたので、こんな芸当も出来たわけだ。
▽ほんの二時間ほどのつどい、またいつか会えるだろう、話し合えるだろうと、はかないがそんな約束をして別れてゆく後ろ姿よ。