五月

▽前以て大阪から電話があった。未知のお方で、宮坂勝画伯のことを聞きたいという。私は知らぬわけではないが、作品をいくつか持っているわけでもなく、お見せするほどの自信がないので、心もとなかった。
▽五月連休はいい機会だからと申され、時間通り三日にお見えになった。奥さんとご一緒だった。六十年輩とお見受けした。
▽お父さんが九州におられたとき青木繁坂本繁二郎と親交を結んだ影響か、お自分も画に関心を持つようになったという。青木繁といえば、若くして逝くなったひと海から獲物を大勢でかついでゆく横に長い大作を思い出して私がいうと「ああその方です」と申された。
坂本繁二郎は淡い感じの馬の作品で知られているので、今更と思ったがつけ足したら、九州で繁と同級生だった話をして下さった。
▽宮坂勝画伯は母校の画の教師として、私の中学校卒業写真のなかに写っている。だが直接お教えは受けなかった。美術学校時代、同期に里見勝蔵や中山巍がいたというから刺戟されたことだろう。
▽宮坂画伯は北アルプス山嶺の出身。戦後郷里に帰ってからは地方画壇育成に尽くされ、展覧会などを開かれた折も折、近付きを得たのだった。何か動物がうごいている図がほしいがとお願いしたら、未完成だといって羊の画を持って来て下さった。しばらく架けておいたけれど、未完成を理由に引き上げてしまわれた。
▽私は滞欧作品で埠頭があるのでお見せした。ずっと若いときのものと思われる無署名の港があり、憂愁のただよいが好きなので、たまたま架けるがこれもご覧に入れた。
▽松本と東京にアトリエを持って活躍をつづけていた矢先、昭和二十六年、東京で客死なさった。行年五十六歳であった。
▽戦後、日展が発足したとき第一回展に「スケート」を出し、第二回展出品「湖畔」と共に特選となった。いずれも木崎湖風景。
▽大阪からわざわざお見えになったのは、作品をぼつぼつ蒐め、逸話を聞き、そして評伝を仕上げたいという。大成を祈って別れた。