十二月

▽歳の押しつまった十二月句会は寺沢正光さん追悼の集いとなって弔句を献げ、遺影を前に宿題と共に席題「正」「光」に励んだ。
▽二月二十一日に逝くなった山岸きよしさんの葬儀に会葬された数カ月後に入院、たまには自宅に戻られたが、十一月二十八日物故。ことしは二人の同人を喪った。
技能士で柳樽を手掛け、傍ら作句の豊科町の小口保さんが一月十日、二月十二日は亡弟の松本高校時代担任ドイツ語教授だった手塚富雄先生が東京で逝くなった。杜美王の俳号を持ち、川柳に好意を寄せられ長く「川柳しなの」を読んでいて下さった。
一水会の中村善作画伯が四月二十七日逝去。松本近くに居られた時も、上京なさってのちも親しく、「川柳しなの」に画や随筆を寄せて貰った。
▽五月十八日、鎌倉市綿谷雪さんの訃報がもたらされた。武道ものの個人誌の印刷を引き受けたことがあり、著書は次ぎ【踊り字・濁点なし】といただいた。麻耶火の号、江戸文学に精しかった。
▽初め高峰という俳号だったが川柳に転向、本名は北沢袈裟治だが、高峰柳児で長野県柳界の長老としてにらみをきかせた。軽妙洒脱、言動にほどよき感情を伝えて親しまれたのに、六月二十六日逝くなった。七十七歳。
▽私が交際している最も長齢者は増田亮太郎さん、若々しく太郎が雅号、青春時代川柳に関心があり、明治の頃の川柳書を見せて貰ったことがある。実に丁寧実直な方だった。八月六日逝く。九十五歳。
▽第四回長野県民芸術祭参加、第三十七回長野県川柳大会が飯田市で開催される十月三十日を楽しみになさっておられた伊那川柳吟社主宰宮粼仁さんがその月の二十四日逝くなった。残念だったろう。
▽毎月欠かさず投吟なさっていた上倉泥柳さんが十一月八日に逝去のお電話をいただいた。まもなく十二日には神戸市の三条東洋樹さんの訃報が届き、二十七日には本誌連載柳多留二篇三篇輪講の礎稿で大いに啓発した大村紗華さんが逝くなり、十二月八日には原田伴彦博士が急逝。「木曽信濃路の魅力」でわがしなの川柳社を天下に紹介なさって下さったのだ。