十一月

▽大方の川柳誌がそうだったが、戦争が激しくなって雑誌統制が布かれ廃刊を余儀なくされた。「川柳しなの」もお他聞に洩れず昭和十五年十月号で休刊した。表紙は関野準一郎さんの版画「子守」で特輯蔵書票紹介は二十六号だった。笑姿老人(蛭子省二)さんの「素人斜視」が載っている。
▽昭和二十一年一月号から復刊、紙不足を訴えていた頃だったので菊判の半截、いまのA6判、横長の小じんまりした体裁。五、六月合併号より、毎号丸山太郎さんの小さな版画を貼った。手彩色。とても好評で、この次はどんな図柄だろうと期待する人が多く、昭和二十三年からA5判に復帰したが、のち、旧号の版画入りの印象を回顧する書がつづいた。そのひとり食満南北さんは巻書きに実物大で本誌を写し取り、なつかしがって下さった。先輩で「川柳しなの」を贔屓にしてくれたひとりだったと、いま思う。
▽昭和二十五年四月号に「近頃」を寄稿して下さり「川柳と上方」連載、つづいて「芝居と絵」が昭和三十二年の晩年まで至った。「芝居と絵」は文字通り絵が挿絵となり、これも軽妙な筆捌きを重ねてたのしませて下さった。
▽その間、私は思い立って「食満南北先生川柳画賛作品頒布会」を興し兵庫県在住、劇作家と紹介して知己の需めに応じ、幸いにも賛同者が続出してご本人を喜ばせた。
  引越してからの原稿
      よく選び
の画賛の横顔はわが家の自慢。また乞うて屏風に「勧進帳」などその外の芝居絵を画いて戴いて大切にしている。
喜寿のお祝いが菅楯彦氏発起で計画され、大阪のつる家で行われるお知らせを得、案内図まで明示していただいたが急に用が出来て行かれなかった。お会いするいい機会だったのに残念だった。扇子型に画賛して
  喜びは外へもやらじ
        鶴と亀
▽昭和三十二年五月十四日に逝くなられ、ついついお会い出来ずになってしまった。。昭和五十八年十月関西大学国文学会「国文学」第六十号に浅井薫氏の「食満南北著作目録」が掲載されている。