九月

▽お盆が過ぎたと思った頃、尼崎市の山岸竜清君がお父さんの新盆で見えられ、関西柳界の変遷をつぶさに語って下さった。
▽二、三日したら大阪市の柳君子さんがお兄さんのお見舞いで帰郷顔を見せてくれた。話はつい山岸きよしさんの急逝につながった。
大阪市のK氏という未知の方から速達、川柳しなの昭和十二年一月創刊号から四十五号、欠号はあるが三九六号まで入手、号数のことで問い合わせあり、早速返事。
▽八月下旬、案山子川柳社の福家珍男子さんがお仕事で松本出張。四国坂出市から拙宅に見え快談。その日、竹馬の友、相州大磯町の内山一也君が大学休み利用で久し振り。てし【ママ】
▽本号の館山市の多田光さん「松本四話」の移庁論で殴打された百瀬某とは百瀬興政(おきまさ)県議。昭和八年四月十五日付「信濃日報」を見ると「問題の移庁案上程第二日目は異常なる緊張裡に午後二時二十分開会(中略)岩附県議に議事進行を連呼して議長との間に押問答を重ねてゐた折柄傍聴席北側に陣取ってゐた壮漢が議場の中央に駆降り正義のためだと大声を発しつつちん入其辺に居合わせたる百瀬興政県議に打ってかゝり同県議を散々に殴打した」(下略)
信濃日報は私の家のすぐ前にあった地方新聞社。関連は降旗元太郎、百瀬渡、降旗徳弥氏(浅間在住)と続く。いずれも代議士。
▽百瀬興政県議の自宅は隣の町にあった。松本信用金庫の初代理事長を勤め、のち松本市長就任。またこの組合は殆んどを私の町内にあり、二転して現在やはり同町内、松本信用金庫と改称、地方金融機関として親しまれている。
▽また館山と商取引のあったという扇子屋の名があるが、実は私の実家の本家。本町一丁目(現在中央二丁目)に業種は変ったが現存。私の町はもと大名町と言い、明治の廃藩置県後に出来た。それ以前は松本城入口、大手南門内通り、商禄の武士の邸が多く、明治後商人らが買い取った。
▽居ながらにして訪ねてくれる方々があるので仕合わせだが、多田さんはご寄稿によるよき表掲というものだろう。ついついわがごとのように悦に入っている次第。