五月

▽今でもそうだが、小学校で新学期を迎えて間もなく、身体検査が一斉に行われるたびに、いやだなと思った。男女の区分けなく一緒だからという記憶はない。恐らくあの頃も別々だったろう。
▽裸になって恥ずかしい、そんな殊勝な気持ちを通り越して、自分の身体をみんなに見せるのがいやだった。というのは、もともと痩せっぽちで、それが恥ずかしく気落ちさせた。
▽そのままいまも同じ。太ったためしは先ずなく、せいぜい十二、三貫どまりである。そんな話を交すと、増田亮太郎さんが相槌を打ってくれたのだから、見方が出来たようななものである。
▽亮太郎さんの雅号は太郎、少しは若返りたい念願でこうきめた。気分のうえでも太郎の呼称は真新しさ、若々しさがある。川柳人として交際している一番の長齢者で人生体験を語るときの確信のほどが、接してじかに響いてくる。得難く、力強い迫力さえ覚える。
▽身体がこじんまりと、まとまったといわれるにしても、腰は曲がらず、すんなりした姿勢がいい。或るとき老人クラブの集いに出掛け自己紹介をしたところ、入れかわり立ちかわり、恭々しく養生法を問いかけられ、初めのうちは至極几帳面だったが、質問のどれも同じで手古摺った。
▽少しサバを読んで二十歳ぐらい若い齢を言っておけば、こんなに質問攻めに会わなかったのにと、悔んだ。
▽会合にはそれから遠慮するようになり、悠々自適、それもゴロゴロするでなく、書を読み、また来客があれば世間の知識を掬みとるようにする。
▽枯淡、この二字にふさわしい。飄々たる後ろ姿がまたいい。しばらく話して、私に爽やかな肌合いを密着させたあと、辞するときの実直さ、後をにごさざる立ち際の気だてが冴える。
▽腰の曲がる人を見て、前に行くことばかり心掛けているからああなるのも無理ないとおっしゃったが、ピンと腰を伸ばし、じっくりじっくり歩くことを自分に仕向けているという。私とおない歳の娘さんと二人暮らし。明治二十一年生まれの好男子。いい友だちである。