四月

▽自動車がまだ道路を走らないで交通事情が誠に緩慢の頃だった。街路に出て子供たちは鬼ゴッコも縄跳びも駈けっこも出来る、今から考えると夢のような時代、それは大正期、小学校に通っていたが、時期になると年に二回か三回やって来る楽隊があった。
▽大人でなく、私たちくらいの年恰好で、その哀れっぽいメロデーを聞くと、孤児院の子供たちだとわかった。太鼓を鳴らし、ラッパを吹き、何か自分たちの身の上を語る歌で合唱した。
▽楽隊が鳴りやむと、リーダーがいつものように、みなし児だから何かしら恵んでほしい、大した品物ではないが、順々に家を回るから援助して貰いたいと口上があって、一軒一軒売りにまわるのだった。一人でもあり、或いは二人で、石鹸、歯みがき、ブラシ、塵紙といった日用雑貨である。
▽毎日来るのではない、たまに来るので、待ちかねたように家々でおじいさん、おばあさんを始め、みんな心配だてに買い求めるのであった。そして訪問が終ると、別の町に出向いて行く。
▽私達は両親を持ち、片親の友だちもあったが、みなし児というのは身寄りのないひとりぼっちの児ということで、わが身を振り返って可哀相だなあと後姿を見送ったものだった。
▽こうして旅廻りする孤児たちと違って、松本にも孤児たちを収容して、修養につとめているところがあった。いまの蟻ヶ崎高校の北に当たり、キチンと戸をとざし、用のあるときだけ戸をあけてくれるようになっていた。平素人の出入りは多くなかったようだ。
▽寺田という名前だけいまも覚えている。背ぐくまったズングリしたからだつきの、中老の女の方。年期が過ぎたと見えて、私の隣の歯科医に弟子として孤児のひとりを連れて来た。長くはいなかった。いつの間にかいなくなった。
▽此頃、中国残留孤児が肉親をさがしに見えた。歌壇と柳壇に
 自らをたずねん旅に父母の
  国踏む孤児多く年より皺あり
           丸山恵久
 孤児の顔昭和も大部年をとり
           鈴木福
 それぞれに姿勢と矜持を見る。